白眼視の元祖 酒に溺れ、奇行に走った竹林の名士 阮籍(三国 魏)物語にはない「裏三国志」
司馬懿仲達とその子孫が謀略により魏の実権を握ってゆく過程が描かれる。
そんななか、魏の貴族で、権謀渦巻く政界から身を避け、竹林に集まって酒を飲んだり、
琴を弾じながら自由に議論(清談)することを楽しむ者があらわれた。
「竹林の七賢」
と、よばれた(ただし、七人が同時に集まっていたわけではない。)かれらの代表が、
阮籍(あざなは嗣宗)(210-263)
嵆康(あざなは叔夜)(222-262)
であった。
阮籍は晋代以前では最高の詩人とされ、酒に酔って奇行を重ね、古い礼教に反抗した。
なかでも、相手によって白眼と青眼を使い分けた話は有名である。
阮籍はなにゆえ酒に溺れ、奇行に走ったのか?
中国史人物伝シリーズ
目次
異か痴か
阮籍は、陳留郡尉氏県出身である。
父の阮瑀は蔡邕の弟子で、「建安七子」のひとりとして知られ、曹操に仕えた。
阮籍は容姿にすぐれ、小事にこだわらず傲然としており、容色に喜怒を出さなかった。
阮籍は、天性に任せて自由気ままにふるまった。
門戸を閉じて書物にふけり、何か月も外出しなかったこともあれば、
山登りしたり川に臨んだりして、何日も帰ってこないこともあった。
阮籍は読書家で、老荘を特に好んだほか、酒を嗜み、詩を吟詠し、上手に琴を弾いた。
阮籍は満足すれば、外観を気にしなかった。
――阮嗣宗(阮籍)は、痴愚である。
多くの人からそう評されたが、一族の阮武だけは、
「われにまさる」
と、つねに感服した。
そのため、みなが阮籍をすぐれていると称めた。
仕 官
阮籍は名家の出でありながら仕官を望まなかったようで、
兗州刺史の王昶に面会しても、日がなひと言も発さなかった。
正始年間(二四〇―二四九年)には、太尉の蒋済から辟召されたが、
固辞して去ったため、蒋済の怒りを買った。
郷里の父老や親族から諭されて、阮籍はやむなく太尉府に出仕したが、ほどなく病と称して帰郷した。
のちに阮籍は尚書郎となったが、病気で職を免ぜられた。
曹爽が専権をふるうようになると、阮籍は辟召されて参軍となったが、
病と称して辞職し、郷里に籠もると、一年あまりで曹爽が誅殺されたので、人びとはかれの先見性に感服した。
阮籍は、司馬懿が太傅となると、従事中郎に任じられ、
司馬懿が亡くなると、大将軍従事中郎として司馬師に仕え、
曹髦が即位すると、関内侯に封じられ、散騎常侍に遷任された。
保 身
阮籍には、済世の志があった。
しかし、政変が多発し、天寿を全うする名士が少なかった。
そのため、阮籍は俗事にかかわろうとはせず、いつも酒を吞んでいた。
大将軍の司馬昭が、子の司馬炎に阮籍の女を娶わせようとしているのを知ると、
阮籍は浴びるように酒を吞み、六十日も酔っぱらいつづけた。
そのため、縁談はうやむやなまま、立ち消えになった。
また、司馬昭の謀臣である鍾会から時事について問われると、阮籍は、
――失言を狙っているな。
と、察し、泥酔しながら答えたため、論われずにすんだ。
――大将軍に睨まれている。
身の危険を感じた阮籍は、
「われは東平へ游び、その風土を楽しんだことがございます」
と、司馬昭を悦ばせ、東平国の相を拝命した。
阮籍は赴任すると、役所の垣根を壊して内外からみえるようにし、法令を簡便にして、
旬日で帰還し、大将軍従事中郎に遷任した。
――歩兵校尉の営舎には、うまい酒が三百斛(約六・一キロリットル)もある。
酒に目がない阮籍は、これを耳にすると、みずから志願して歩兵校尉に異動した。
司馬昭の幕下から去ったものの、阮籍はつねに大将軍府の様子を気にかけ、
朝に宴が催されれば、かならず参加した。
哀毀骨立
阮籍は幼くして父を喪ったこともあり、母への孝心が篤かった。
「母を殺した者がおります」
役人からそう報せられて、阮籍は、
「ああ、父を殺すのはよいが、母を殺すとは――」
と、嘆いた。満座は、
――不謹慎ではないか。
と、怪しんだ。
「父殺しは、天下の極悪じゃ。どこがよいのじゃ」
司馬昭からそうとがめられ、
「禽獣は母を知っておりますが、父を知りません。
父を殺すなら禽獣なみですが、母を殺すなど禽獣にも及びません」
と、阮籍が応えると、満座はようやく納得した。
母の訃報に接したとき、阮籍は囲碁をしていたが、
「やめよう」
と、対局者からいわれてもやめず、決着がつくまで対局をつづけた。
決着がつくと、酒を二斗(約四リットル、一斗は十升)飲んで叫び声をあげ、数升の血を吐いた。
礼によれば、喪中に酒食をしないが、礼教にこだわらない阮籍は、蒸した干し肉を食べ、酒を二斗飲んだが、
悲しみのあまりやせ細って骨が立ち、いまにも死にそうにみえた。
葬礼を挙げる段になると、
「もうだめじゃ」
と、いって哭泣し、数升の血を吐いた。
裴楷が弔問に訪ねてくると、阮籍は髪をばらばらにし、足を投げ出したまま酔っており、
じっと裴楷をみつめていただけであった。
礼を逸脱した挙措であっても、阮籍にとっては孝心のあらわれであった。
青眼と白眼
阮籍は、白眼と青眼を使いわけることができた。
礼にこだわる俗人(礼俗の士)には、白眼をむけた。
嵇喜が弔問に訪ねてくると、阮籍は白眼をむけた。嵇喜は不愉快そうに去っていった。
ところが、嵇喜の弟の嵇康が酒をたずさえ琴を抱えながらやってくると、阮籍は大喜びし、青眼をみせた。
これが、かれの廉直なのであろう。
気にいらない人物を冷遇する意で用いられる
「白眼視」
という成語は、この話から生まれた。
勧進文
魏帝が司馬昭に九錫を賜おうとしたが、司馬昭はこれを固辞した。
公卿らは司馬昭に受命を勧めるため、阮籍に勧進文を作らせた。
阮籍は酔いつぶれて作るのを免れようとしたが、役人に促され、酔ったまま一気に書きあげた。
これが、
「為鄭沖勧晋王牋」
である。
司馬昭は、景元四年(二六三年)に九錫を授かった。
その年の冬に、阮籍は五十四歳で死去した。
著作に、『詠懐詩』『達荘論』『大人先生伝』などがある。
酒と奇行と敬慎と
奇行と飲酒
阮籍の奇行については、枚挙に暇がない。
隣家に若くて美しい女人がおり、酒を飲んでいたが、
阮籍はいつもそこにいって、飲んでは酔って、かの女のそばで横になった。
かの女の夫は、このことを知っても、阮籍に密通の嫌疑をかけなかった。
――阮籍は、そのようなことをしない。
と、おもわれたのであれば、かなり奇特な人物ではなかったか。
阮籍が俗世離れした奇行に走った背景には、当時の世情があろう。
司馬氏が謀略をめぐらせて政敵を追い落とし、専制体制を築きあげていた。
司馬氏に睨まれようものなら、身に危険が及ぼう。
生きにくい時代である。
――司馬氏に与することなく生きることはできないか。
と、模索した阮籍が導きだしたのが、飲酒であった。
阮籍の奇行には、酒が欠かせなかった。
酒を飲んでの無礼は許される。
それゆえ、阮籍は酒を飲み、礼を逸脱した。
これが、懐いを胸裡に留めおくことができないかれにとって、自分らしいふるまいであった。
さらに、皇帝をないがしろにしながら、ことさらに礼教をいいつのる
司馬氏とその与党へのかれなりの諧謔であったろう。
理解者
一方で、阮籍は、礼を逸脱しつづけることに危惧をいだいていたふしもある。
子の阮渾が父にあこがれ、小事にこだわらなかったので、たまらず、
「わが一族には、仲容(甥の阮咸)もおる。なんじまで似てはならぬ」
と、諭し、やめさせた。
破天荒に生きたかにみえる阮籍の処世は、じつに慎重そのものであった。
酒のいきおいにまかせて縁談話をはぐらかしたかとおもえば、司馬氏の機嫌をうかがったりするなど、
剛毅さをみせた反面、司馬氏に嫌疑をかけられないようつねに気をつかっていた。
それを看破したひとりが、なんと司馬昭であった。
司馬昭は、阮籍を至慎と評し、
「いうことがいつも玄遠で、人物を批評したことがない」
と、称めたという(『世説新語』徳行)。
警戒すべき対象から理解されていようとは、阮籍もさすがにおもいもしなかったであろう。
阮籍は礼俗の士から弾劾されたが、そのたびに司馬昭が庇ってくれた。
阮籍が阮渾にした発言は、ときの権力者に司馬昭ほどの雅量がないと見越してしたものなのかもしれない。
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