Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//孟嘗君の父 食客愛好家の先駆者 靖郭君 田嬰(戦国 斉)(2) 海大魚

中国史人物伝

孟嘗君の父 食客愛好家の先駆者 靖郭君 田嬰(戦国 斉)(2) 海大魚

田嬰(1)はこちら>>

東方の大国である斉の宰相を、二十年もの長きにわたり務めた田嬰の家は、

「後宮の女人は綾絹の衣服を身につけ、僕妾は米や肉を飽きるほど食べている」

ほど富裕になった。

田嬰自身は利殖に興味がなかったかもしれないが、

長年権柄を握っていれば、家財は殖えてゆくのであろう。

田嬰はそれを原資にして食客を集め、養った。

そして、それは子の田文(孟嘗君)に受け継がれ、

――食客数千人(『史記』孟嘗君列伝)。

にまで膨れあがるのである。

中国史人物伝シリーズ

目次

薛 公

紀元前三二一年、田嬰はこれまでの功績が認められ、
「なんじを、薛に封じよう」
と、斉王(宣王あるいは湣王)から内示をうけた。薛は、楚の版図に近い。
これをきいて、楚の懐王(威王の子)は大いに怒り、斉を伐とうとした。
斉王は悔やみ、
「やはり、こないだの話はなかったことにしてもらえまいか」
と、田嬰に告げた。
肩を落とした田嬰そのそばに、公孫閈(公孫閲とも)が近づき、
「公が封ぜられるかどうかは斉王がお決めになられることではなく、楚の出方しだいです。
われが楚王を説き、斉よりも公を封じたいとおもわせるようにしましょう」
と、申し出てきた。
「おまかせしよう」
公孫閈は楚へゆき、懐王を説いた。
「魯や宋が楚にお仕えしているのに、斉が楚にお仕えしないのは、斉が大きく魯や宋が小さいからです。
斉が大きいことを、大王が何ともおもわれないのはなにゆえでしょうか。
斉が地を削って田嬰を封じれば、斉は弱まりましょう」
「なるほど」
懐王は納得し、斉を伐つのをやめた。
こうして、田嬰は薛に封じられ、薛公と称されるようになった。

海大魚

田嬰が薛に城を築こうとすると、食客に諫められた。
田嬰は、諫言を嫌がる君主ではない。
しかし、人数があまりにも多かったので、田嬰は謁者(取りつぎの役人)に、
「取りついではならぬ」
と、命じた。すると、
「三言だけ申しあげます。ひと言でも多ければ、臣を烹てくださってかまいません」
と、申し出てきた客がいた。
「よかろう」
田嬰は、その客を引見することにした。
客は趨走して田嬰のまえに進みでて、
「海大魚」
とだけ発すると、くるりと背を向けて走り去ろうした。
「客人よ、とどまられよ」
田嬰が引きとめると、その客は、
「戯言を申して死にとうはございません」
と、返してきた。
「殺しはせぬ。もっとくわしく話してもらえまいか」
田嬰はそういって客を安心させて、続きをうながした。
「君は大魚をご存知でしょう。網でも取り押さえることができず、鉤でも引きあげることができません。
そんな大魚でも、大波に放り出されて水から打ちあげられると、螻蟻でも好きにできるのです。
いま、斉は君にとって水になります。君は、斉という水を失ってはなりません。
斉を失ったら、薛の城を天に届くまで高くなされても何の役にも立ちますまい」
「なるほど」
田嬰は唸り、薛に城を築くのをやめた。

人を知る

貌 弁

田嬰は、貌弁という食客と仲がよかった。
貌弁は性格に難があり、他の食客から嫌われていた。
子の田文(孟嘗君)がそのようすを見かねて、
「貌弁を追放してください」
と、諫めようものなら、田嬰は色をなし、
「なんじらを滅ぼし、わが家が破産しようとも、貌弁が満足するのなら、われはためらわぬ」
と、怒声を放ち、退けた。
田嬰は貌弁を上舎に迎えいれ、長子に世話をさせた。
威王が亡くなり、宣王が即位した。
田嬰は、宣王と折り合いが悪かった。
――王は、われを煙たがっている。
田嬰はそう察し、みずから官職を辞して薛へ往った。
貌弁もそれに随ったが、しばらくすると、
「臨緇へゆき、王に謁見させていただきたい」
と、田嬰に願いでた。
「王は、われをひどく嫌っておられる。往けば、必ず殺されよう」
田嬰はそういって引きとめたものの、貌弁に、
「死はもとより覚悟しております。どうか行かせてください」
とまでいわれると、止めることができなかった。

誤解を解く

貌弁は斉の首都である臨緇へゆき、宣王に謁見を願いでた。
「なんじは田嬰に愛され、いうことは何でも聴きいれられるそうじゃな」
宣王から冷えた声を浴びせられた貌弁は、
「愛されてはおりますが、何でも聴いてもらえたわけではございません」
と、冷静に返した。
――それは、どういうことか。
宣王は、そういいたげな顔を貌弁にむけた。
「王が太子であられたとき、われは靖郭君(田嬰)にこう申しあげました。
太子には不仁の相がございます。廃しましょう、と。
すると、靖郭君は、ならぬ。われは忍びない。と、泣いて退けられました。
もしわれのいうことを聴いていれば、きっと今日の患いはございませんでした。これがそのひとつめです」
「ほかにまだあるのか」
「薛に至ると、楚の昭陽が、数倍の地と薛を交換しよう、と持ちかけてきました。
われは、そうなさいませ、と申しあげましたが、靖郭君は、
薛は先王から賜った地じゃ。いまの王と折り合いが悪いからといって、先王に何といって弁解するのか。
それに先王の廟は薛にあるんじゃ。先王の廟を楚に与えることなどできようものか。
そうおっしゃって退けられました。これがそのふたつめです」
宣王は大息し、顔色を変え、全身をふるわせながら、
「叔父君は、そこまで寡人のことをおもっていてくれていたのか。寡人はまだ若く、そこまで存じなかった。
客よ、寡人のために叔父君を連れてきてもらえまいか」
と、貌弁に依頼した。

復 位

田嬰は、貌弁の復命を受け、
「よういたしてくださった」
と、喜び、臨淄へむかった。
臨淄の郊外に到ると、信じられない光景があった。
なんと、宣王がみずから田嬰を迎えに出てきていたのである。
「ちっ、父上――」
宣王は、田嬰をみて泣いた。
田嬰は、威王の衣服を着て、冠をかぶり、剣を帯びていた。
それゆえ、田嬰に威王のすがたを重ねたのであろう。
「また、われを輔けてもらえまいか」
宣王からそういわれたが、田嬰は、
「臣は、もう老いましたゆえ」
と、辞退した。
それでも宣王が繰り返し懇願してきたので、田嬰はやむを得ず鼎位に復した。
しかし、七日後、病と称して辞任を申し入れた。
宣王は慰留したが、田嬰の辞意は固く、認めるしかなかった。

孟嘗君

死後に靖郭君と諡された田嬰には、四十余人の子供がいた。
そのうち、家督を継いだのが、田文であった。
田文は食客をよく遇し、よく用いた。
かれが養った食客は、三千人にも及んだ。
かれこそが、斉の宰相として善政を布き、名声を天下にとどろかせた孟嘗君である。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧