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中国史人物伝

愛すべき楽天家 蘇東坡(蘇軾)(北宋)(9) 洛蜀党議

蘇東坡(蘇軾)(8) はこちら >>

蘇東坡(蘇軾)は、旧法党の蜀党に属していたとされる。

かれにとって、そう分類されるのは不本意かもしれない。

かれは、旧法の欠点から目をそらさず、新法の利点を認めた。

司馬光とは文学仲間として親しかったが、政策について異見を述べることもあった。

おもうに、蘇東坡はニュートラルな視点をもった中庸の人ではなかったろうか。

かれ自身は群れることを嫌い、不羈の存在のつもりであったかもしれない。

こうした特異な存在は、得てして批判の的にされやすい。

司馬光の死後、後継者どうしが誹謗中傷しあうなかで、

蘇東坡は弟の蘇轍や門人らに担ぎあげられ、党争にかまけた。

保守派に対し、公平で批判的な意見を述べた蘇東坡であったが、

程頤には嫉みの心があったらしい。

士大夫の存在意義ならびに目指すべき方向を理論づけようとした程頤の儒学は、

玄孫弟子にあたる朱熹により朱子学として大成した。

君臣父子の上下関係の秩序を特に重んじた朱子学は、

明・清代を通じて官学となり、日本でも江戸幕府が官学として奨励した。

中国史人物伝シリーズ

蘇東坡(蘇軾)(1) 大志
蘇東坡(蘇軾)(2) 科挙
蘇東坡(蘇軾)(3) 出世と訣れ
蘇東坡(蘇軾)(4) 王安石の新法
蘇東坡(蘇軾)(5) 超然
蘇東坡(蘇軾)(6) 筆禍
蘇東坡(蘇軾)(7) 赤壁賦

目次

大出世

元佑元年(一〇八六年)九月、蘇東坡は翰林学士知制誥に任じられた。
翰林学士は詔勅を起草し、それ以外の天子の命令を起草するのが知制誥であるから、
かれは皇帝が発することばのすべてを起草することになる。
また、翰林学士から宰相に昇るものも多い。
つまり、蘇東坡は五十一歳にして次代の宰相候補になったわけである。
それにしても、かれは都に召還されてから十か月の間に三たび要職を遷ったことになる。
異例の大出世といってよかろう。
十一月には、弟の蘇轍が中書舎人に任じられた。
翌年、蘇東坡は侍読を兼ね、経筵(宮中の学問所)で進読(歴史書の講読)をおこなった。
話が治乱興亡・邪正得失に及ぶと、かれはいつも反復して言いきかせ、哲宗の啓発に努めた。

遺 志

蘇東坡が禁中に宿直していたとき、便殿に呼び出され、宣仁太皇太后の諮問を受けた。
「あなたは去年、いかなる官職にお就きでしたか」
「汝州団練副使でした」
「いまは、何ですか」
「翰林学士でございます」
「なにゆえにわかにそうなられたか、おわかりですか」
「太皇太后陛下と皇帝陛下のご時節に巡りあったからにございます」
「いいえ、ちがいます」
「大臣の推薦でしょうか」
「それも、ちがいます」
蘇東坡は驚愕し、
「臣には何の功もございませんが、邪なやり方で出世しようとおもったことはございません」
と、返すのがやっとであった。
そんなかれに、太皇太后はやさしくことばをかけた。
「先帝のご遺志じゃ。先帝は、あなたの文をご覧になるたびに、奇才じゃ、といつも感嘆しておいででした。
ただあなたを擢用するいとまがなかっただけなのです」
おもいもよらぬことばに、蘇東坡は涙を流し、声を失った。
太皇太后や哲宗もまた涙を流し、近臣もみな感極まって涙した。
蘇東坡は太皇太后から茶をふるまわれ、さらに金蓮燭(金で飾った蓮華形の灯籠)を授けられた。
――先帝のご恩に報いねばならぬ。
その一心で、蘇東坡は文筆を奮って時政を批正した。
畢仲游からこれを戒める手紙が送られてきても、かれは改めなかった。

洛蜀党議

旧法党には、派閥があった。

洛党 程顥・程頤兄弟、朱光庭、賈易ら程頤の門人
蜀党 蘇東坡・蘇轍兄弟、呂陶ら蜀出身者
朔党 劉摯、梁燾、王巌叟、劉安世ら河北出身者
(朔党は司馬光の系統で、司馬光が陝州夏県の出身であったことから朔党という。)

洛党は新法に全面的に反対したが、蜀党は新法と旧法のいいとこ取りをしようと主張した。
司馬光は、それぞれ主張の異なるかれらを集めてうまく活用した。
ところが、司馬光の死後、宰相の呂公著が政権を仕切るようになると、蜀党と洛党の対立が先鋭化し、
たがいに誹謗し合い、放逐しようとした。
特に、蘇東坡と程頤の仲が悪く、何度も衝突していた。
洛陽の儒者であった程頤は、よく古礼(古代の礼儀作法)を用いた。
それを、蘇東坡は人情にそぐわないと批判した。
蘇東坡は程頤を嫉み、いつも戯言をいい、からかった。
さらに、かれは募役法の存続を主張し、
「現実を視ていない」
と、他党を批判したため、
「新法党に心を寄せている」
と、他党から攻撃の的にされた。
政策をめぐる論争は、いつしか個人的な恩讐に起因する権力闘争に転じ、国政は動揺した。

文人知事

元佑四年(一〇八九年)のはじめに、程頤が罷免され、知西京(洛陽)国子監に転出した。
天敵が追放され、喜ぶかとおもいきや、蘇東坡は、
――地方へ逃れよう。
と、おもい、外任を願い出た。
かれは、党争にはまりこむおのれに嫌気がさしたのである。
三月に、かれは知杭州軍州事(杭州知事)となった。
このとき、かれは五十四歳、二度目の杭州赴任である。
かれは、七月、十五年ぶりに杭州に赴任すると、この年の大旱と翌年の大雨への救荒策を講じた。
さらに、杭州城内の運河を整備したり、西湖を浚渫して取り上げた泥で堤防を築くなど灌漑水利をすすめた。
西湖の南北を貫くこの堤防は、
「蘇堤」
と、呼ばれ、現存している。
また、蘇東坡は病坊を設置するなど福祉事業にも乗り出している。
これだけの事業に着手できたのは、かれの後任として翰林学士知制誥兼吏部尚書になった蘇轍をはじめ
都に朋党がいたからであろう。
その甲斐あって、宋代に杭州は江南最大の都市に成長した。

地方と朝廷と

元佑六年(一〇九一年)二月、蘇東坡は、任期満了により都に召還された。
――わが経歴は、白楽天に似ている。
杭州を去る際に詠んだ詩のなかで、かれはそう述べた。
白楽天は五十一歳で杭州刺史となり、蘇軾と同じ六百日務めたが、やはり治水に腐心していた。
白楽天は五十八歳で洛陽に隠棲し、七十五歳で死去している。
五十六歳の自分も同じように閑職に就いて隠退するのであれば、閑居の年月が二十年も残されている。
そう詠みながら、再会を口にする道人たちに対しては、
「もはや老いてしまったので、白髪になるまで生命がもちますまい」
と、自虐的な発言をするところは、いかにもかれらしい。
蘇東坡は三月に杭州を発ち、五月に汴京(開封)へ入った。
朝廷は、相変わらず党争に明け暮れていた。
蘇東坡は翰林学士知制誥兼侍読に復し、すぐに吏部尚書を兼務させられたが、
ほどなく洛党の賈易に弾劾されるなどし、わずか二か月ほどで再び外任を願い出た。
八月、蘇東坡は翰林院学士承旨を罷免されて知潁州軍州事に任じられ、
さらに半年ほどで知揚州軍州事に転じたが、これも半年ほどで都に召還された。
――紙切れひとつで異動されるとは。
かれは、辞令に翻弄されるわが身に悲哀を感じた。

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