討秦の旗頭 項梁に擁立され、項羽に殺された 楚の懐王(義帝)(秦楚)
秦は人民を厳しい法(律)で縛り、苛酷な労役を課したりした。
人民は不満を募らせ、始皇帝が崩じると、各地で叛乱が起こった。
秦への遺恨が特に大きかったのが、楚人であった。
楚人は、秦に騙された楚の懐王に憐憫の情をいだいている。
懐王は秦に招かれて勾留され、帰国を許されないまま客死した。
――楚は三戸といえども、秦を亡ぼすは必ず楚ならん。
楚人は懐王の無念をおもい、秦への恨みを募らせ、報復を誓った。
紀元前209年、楚の将軍項燕の子項梁(項羽の季父)が呉で決起した。
かれは長江を渡って勢力を拡大すると、民間から懐王の子孫を捜しはじめた。
秦討伐の旗頭として、擁立するためである。
中国史人物伝シリーズ
目次
零 落
白髪交じりの羊飼いは、名を心という。
秦が天下を統一したいま、他人に使役されているが、世が世ならば、王族として傅かれるような存在であった。
じつは、かれは楚の懐王の孫であった。
しかし、紀元前二二三年に楚が秦に滅ぼされると、心は庶民に貶された。
壮年の心は、巷間に紛れこんだ。
――また尊貴な身分に戻れようか。
そのような淡い望みをいだいたこともあったが、老年にさしかかるにつれ、
――このまま羊飼いとして世を終えよう。
と、諦念するようになった。
迎 立
楚が滅んでから、十五年が過ぎた。
心がいつものように牧羊をしていると、
「もしや、心さまではございませんか」
と、楚冠をつけた男に声をかけられた。心は首をかしげた。
「項(梁)将軍の命で、楚の王孫心さまをお迎えにまいりました」
心はあわてて人さし指を口にあてて、その男を近くの樹陰にいざなった。
「どういうことか」
心は、説明を求めた。
――どうせ最初だけ飾りとして利用して、いらなくなれば消されるんじゃろう。
はじめはそうおもい、消極的な心であったが、男の話をきいているうちに、
――これも天命であれば、誘いに乗ってみるのもよかろうて。
と、おもい直し、
「わかり申した」
と、おもむろにうなずいた。
心は使者に連れられて薛へゆき、項梁に面会した。
王 位
項梁は、上座をあけて心を迎えた。
心はせきばらいをしてから、
「われは、楚の懐王の孫、心である」
と、おごそかに名告った。
「おお、君よ、お待ち申しておりました」
項梁は喜びの声をあげ、心を楚王に擁立し、祖父とおなじ懐王と称させ、
「盱台(盱眙)を都となされませ」
と、いい、陳嬰を上柱国(宰相)として属けてくれた。
紀元前二〇八年六月のことである。
懐王はいきなり他人に傅かれる身分になり、落ち着かなかったが、陳嬰がなにかと輔けてくれた。
陳嬰は寛容の長者で、衆目の信望があった。しかし、決して人の上に立とうとしない。
「母からそういわれたんですよ」
穏やかにそう語る陳嬰に、いつしか懐王は気を許していた。
しかし、安穏な日々は百日も続かなかった。
「武信君(項梁)が殺されただと――」
――秦軍が攻めてくる。
という戦慄が起こるなか、懐王は諸将の勧めで彭城へ遷った。
討 秦
寛大な長者
趙の使者がしばしば懐王のもとを訪れ、
「援軍をお出しくだされ」
と、要請してきた。
項梁を破った秦軍は楚を攻めず、軍頭を北に転じて趙へ攻め入ったのである。
「いかがいたそう」
懐王は、諸将に対応を諮った。
標的にされなくなったとはいえ、秦を討伐すべく起ちあがったのであるから、秦軍との戦いは避けられない。
だが、秦兵は強く、戦えばいつも敗走し、追撃されていたので、諸将はみな尻込みしていた。
そのような中、項梁の甥である項羽だけは、
「沛公(劉邦)とともに西行し、関中へ入りたく存じます」
と、威勢よく願い出た。
家がらや実績は十分な武人ではあるが、まだ二十五歳で、諸将の上に立つには若すぎる。
「少し考えさせてくれ」
懐王はいったんその場を引き取り、あらためて諸将に諮ると、
「項羽を遣ってはなりませぬ。きゃつは剽悍で残忍です。
かつて襄城を攻めたとき、襄城には生き残った者がおらず、
きゃつが通過した地で、壊滅されなかったところはございません。
これまで楚は強引に進軍し、陳王(陳勝)も項梁も敗れました。
今度は寛大な長者を遣り、義によって秦の父兄を諭させるのがようございます。
秦の父兄は久しく暴政に苦しんでおります。
長者がゆき、乱暴しなければ、きっと降服させられましょう。沛公だけが、寛大な長者です」
と、宿将たちが口ぐちにいった。
そこで、懐王は関中へは項羽ではなく、劉邦を遣ることに決めた。
兵法を知る者
――項羽に遺恨を植えつけないであろうか。
懐王がそう憂えていたおり、斉の使者である高陵君顕が訪れ、
「宋義は武信君が必ず敗れると予言し、数日後そうなりました。
戦う前から敗れる徴証を予見するのは、兵法を知るものと申せましょう」
と、勧めるので、懐王はさっそく宋義を招き、
「趙がしきりに援軍を求めてきている。一方で、項羽が関中へゆかん、と申しておる。いかがいたせばよい」
と、諮問した。これに対する宋義の応えに、懐王は、
――この者なら、なんとかしてくれよう。
と、喜び、肚を決めた。
懐王の約
懐王は諸将を集め、
「宋義を上将軍、項羽を次将、范増を末将とする。趙を救援せよ」
と、命じる一方、劉邦には、
「西方を略定し、関中へ入れ」
と、命じた。
項羽から不満げな視線を感じた懐王は、
「関中へは、趙を救ってからゆけばよい」
と、諭すように語げ、諸将にむかって、
「真っ先に函谷関に入り、関中を平定した者を関中の王としよう」
と、発破をかけた。
紀元前二〇八年九月、諸将が彭城を発った。
十一月になると、桓楚が項羽の使者として彭城にあらわれ、
「宋義は斉と謀って楚に叛いたので、誅しました」
と、報告した。懐王はおもわず腰を浮かした。
「して、軍はどうなっておる」
「諸将はみな項将軍に従っております」
「ならば、項羽を上将軍にしよう」
懐王は、そう即断した。
十二月、項羽は秦軍に大勝し、趙を救った。
項羽の名声は、瞬く間に天下にとどろいた。
義 帝
紀元前二〇七年八月に武関から秦にはいった劉邦が、十月に秦を降した。
項羽が関中に入ったのは、十二月である。
懐王は、項羽の使者から秦討滅の報告を受けると、表情を変えず、
「約のごとくせよ」
と、だけいった。
紀元前二〇六年正月、義帝の尊号を奉られた懐王は、
「古の帝は、方千里の地を治め、必ず川の上流にいたものです」
と、項羽の使者から長沙の郴県へ遷るよう催促された。
「郴へ、だと……」
秦が滅んだいま、項羽に逆らえる者など天下にいない。
義帝は、わずかな供回りを引き連れて江上の人となった。
義帝には天下に君臨する野心など、もとよりなかった。
羊飼いをしていたころから、富貴を望まず、静穏に暮らしたかっただけである。
――郴へゆけば、のんびり暮らせようか。
義帝は、天を仰ぎつつそうつぶやいた。
気がつくと、まわりを無数の舟に囲まれていた。
「項羽のさしがねか――」
そう叫んだ義帝に、白刃が迫ってきた。
――結局、利用されただけか。
そう自嘲しながら、義帝はこの世を去った。
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