子産を達した大宰相 真の賢人 子皮(罕虎)(春秋 鄭)(3) 外の顔
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国政を委ねたといっても、子産が子皮の上位になったわけではなかろう。
鄭の廟堂の席次は、依然として、子皮が首座、子産が次席、であったとおもわれる。
おそらく、子産が内政を担当し、子皮が外交を担う、と役割を分担したのであろう。
内の顔が子産で、外の顔は子皮、といったところであろうか。
鄭は大国に挟まれているだけに、晋ばかりでなく、楚にも気を使わなければならない。
外交をあずかる子皮は、さぞ腐心したであろう。
中国史人物伝シリーズ
目次
虢の会同
王子囲の野心
簡公二十五年(紀元前五四一年)三月、子皮は鄭国内の虢で開かれた諸侯会同に参加した。
この会同は五年前の宋の同盟を温める目的で、楚の王子囲、晋の趙武、斉の国弱、宋の向戌、魯の叔孫豹、
衛の斉悪、陳の公子招、蔡の声子、それに許と曹の大夫が参加した。
王子囲は、楚王が着る服を着て、二人の兵に護衛させていた。
「楚の公子は美しい。まるで君主のようだ」
叔孫豹がそういえば、子皮が、
「戈をもった二人の衛兵がいますね」
と、同調した。
果たして、王子囲は、帰国すると、楚王郟敖を弑殺し、みずから王位に即いた。霊王である。
瓠葉の詩
趙武と叔孫豹が、虢の会同の帰途、鄭都に立ち寄った。
子皮が饗応の日を告げると、趙武は瓠葉の詩を賦した。
――何をいいたいのか。
内心首をかしげた子皮は、叔孫豹に饗応の日を告げたとき、
「趙孟(趙武)が、瓠葉の詩をお歌いになられました」
と、話した。
血のめぐりのよい叔孫豹は、
「趙孟は、一献だけでかまわないと仰せなのでしょう。そうなさいませ」
と、語げた。
礼に則れば、趙武は大国の卿(大臣)であるので、三献にすべきである。
「そんなこと、どうしてできましょうや」
子皮はそう返し、饗宴で五献の辺豆(食器)を用意した。
五献は、小国の君主に対する礼である。
「これは、われには過ぎたるものにて……」
趙武は困惑したようなしぐさでこれを辞退し、子産に何ごとかささやいた。
「趙孟は、一献だけでかまわないと仰せです」
子産にそういわれ、子皮は辺豆を一献に改めた。
「こんなに楽しいことは、もうないでしょう」
宴の後に、そう漏らした趙武は、この年に死去した。
代わって、韓起が晋の宰相になった。
欲望の触手
霊王が王になってから、楚の要求がより苛烈になった。
簡公二十七年(紀元前五三九年)七月に、子皮は、晋の平公が夫人を迎えたことを賀いに晋を訪れがてら、
「楚人から、なにゆえ来朝せぬのか、としきりに催促を受けております。
敝邑が楚へ往けば、お役人が寡君にもともと二心があったと非難されるのを畏れてございます。
かといって、往かなければ、宋の同盟に背くことにあり、進退に窮しております。
寡君は、われにこの苦衷を申しあげさせるのです」
と、指示を仰ぎ、簡公の楚への聘問の許可を得た。
霊王の欲望の触手は晋にも及び、晋の公女が霊王に嫁入することになった。
簡公二十九年(紀元前五三七年)、韓起と叔向が楚まで公女を送り届けた。
翌年、その返礼として、霊王が弟の王子棄疾(のちの平王)を晋へ遣わした。
棄疾がその途中で鄭を通り過ぎると、簡公が柤で棄疾を慰労したいと申しいれた。
このとき、子皮、子産、子大叔の三卿が簡公に随従した。
棄疾は楚王への謁見と同様の恭しさで簡公に面会し、従者に乱暴狼藉をはたらかせなかった。
――やがてこの方が楚王になるであろう。
そばでみていた三卿は感心し、そうおもった。
弔問外交
簡公三十四年(紀元前五三二年)、晋の平公が亡くなった。
子皮は、平公の葬礼におもむくにあたり、
――ついでに新君にも会っておこう。
と、おもい、幣帛をたずさえてゆこうとした。
「葬礼に幣帛など要りましょうや。
幣帛を用いれば、必ず百両が必要になり、百両を用意すれば千人を連れていかなければならなくなりましょう。
千人で行ったとしても、新君に会えないでしょう。
それでも、持って行ってしまったからには使い果たしてしまいましょう。
そんなことを繰り返せば、国は亡んでしまいますぞ」
子産からそう諫止されたが、
「いや、どうしても持ってゆきたい」
と、子皮は耳を貸さず、幣帛をたずさえて晋を訪れた。
しかし、子産のことば通り、新君の昭公に拝謁できなかった。
子皮は、幣帛を全て他のことに使い果たして帰国すると、
「知ることが難しいのではない。行うことが難しいのだ。あの人はそれを知っていた。
われは思慮が足らなんだ。
『書』に、欲は適度を敗り、放縦は礼を敗る、とあるのは、われのことを申しておるんじゃ。
あの人は適度と礼をわきまえている。われはまことに縦欲で、おのれに克てなんだ」
と、行人(外交官)の子羽にこぼした。
才能が子産に及ばないことを自認し、非を素直に認めることができるところが、子皮の美質といえよう。
真の賢人
鄭の名君といわれる簡公は、その三十六年(紀元前五三〇年)に亡くなった。
子皮は、その翌年、簡公の後を追うようにこの世を去った。
訃報に接した子産は、
――われ已みぬ。
と、慟哭し、
「善事をみせる相手がいなくなってしもうた。あの方だけがわれを知ってくれておったんじゃ」
と、悲嘆に暮れた。
理解者がいなければ、どれだけ仕事をしてもやりがいがない。
これは、子産もおなじであったらしい。
子産が才能を十二分に発揮できたのは、子皮がいたからである。
子産の改革の成功で、子皮の名は不朽になった。
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