Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//裏切りは乱世のならい⁉ 反覆常なき美丈夫 孟達(漢魏)(1) 臣道

中国史人物伝

裏切りは乱世のならい⁉ 反覆常なき美丈夫 孟達(漢魏)(1) 臣道

乱世にあっては、主君を何度も替える者など寡なくなかろう。

現代でいえば、転職や勤め先を変えるようなものであろうか。

何度も主君を替え、反覆常なき変節漢と蔑まれる者がいれば、

不屈の賢臣と称される者もいる。

この違いは、後に仕えた主君の賢愚にもよるのかもしれない。

しかし、当人が前の主君に誠実に仕えたかどうかにもよるであろう。

主君を変えながらも賢臣と称される人物は、

前の主君に臣下としての礼を尽くしながらも容れられず、

やむなく別の主君に仕えた者が少なくない。

目先の利益にばかりとらわれて主君を裏切り、

別の主君に仕えるような者が称賛に価しようか。

中国史人物伝シリーズ

目次

蜀 臣

孟達は、扶風郡の出身であった。
建安の初め(二世紀末)に、扶風は飢饉に見舞われた。
おそらく、董卓の死後、李傕や郭汜らが繰りひろげた権力争いの影響であろう。
二十歳すぎの孟達は同郷の法正とともに荒廃した郷里を出て蜀へ移り、劉璋に仕えたものの、
そろって重用されなかった。
建安十六年(二一一年)、曹操が漢中の張魯を討伐しようとしているという話が広がり、劉璋は恐れた。
「劉豫洲(劉備)は君のご一族で、曹公の仇敵です。張魯を伐たせれば、必ず勝ちましょう」
この張松の勧めに従い、劉璋は法正を正使、孟達を副将とし、四千の兵をつけて荊州にいる劉備を迎えさせた。
孟達は蜀から連れてきた兵の指揮を劉備から任されて、江陵に駐屯した。
かれのあざなは子敬であったが、劉備に仕える際に、劉備の伯父である劉敬の諱を避けて、子度に改めた。
建安十九年(二一四年)、劉備が蜀を平定すると、孟達は宜都太守に任じられた。

苦 悶

建安二十四年(二一九年)、劉備の命を受け、秭帰から北上し、房陵を攻めた。
さらに軍頭を西に転じて、劉封の軍と合流してその麾下に入り、上庸を攻めた。
上庸太守の申耽は、軍をあげて降伏した。
この頃、関羽は魏将曹仁が立て籠もる樊城を包囲しており、上庸にいる劉封や孟達に援軍を要請してきた。
「従属したばかりの山中の郡を、動揺させることはできない」
劉封と孟達が、そういって援軍を送らずにいるうちに関羽が敗死してしまったため、
――きゃつらは関羽を見殺しにした。
と、二人は劉備から恨まれてしまった。
そればかりか、孟達は上司の劉封と反目してしまい、軍楽隊を取り上げられてしまった。
――このままでは誅される。
と、恐れた孟達は、延康元年(二二〇年)七月、私兵四千家あまりを率いて魏に降伏した。

帝 徳

孟達の魏への投降は、時宜を得たものであった。
この頃、曹操が亡くなり、曹丕が魏王の位を継いだばかりであった。
かれは帝位をうかがい、みずからがなした功績を欲していた。
そこに、孟達が帰服を願いでたのである。
曹丕は大喜びし、孟達を迎えいれた。
孟達は飛ぶように魏へゆき、曹丕に謁見した。
その際にかれがみせた所作がゆったりとして優雅であり、
――みごとなものだ。
と、曹丕を感嘆させた。
何よりも曹丕が気にいったのは、孟達の押し出しであった。
孟達の容貌は、美丈夫を好む曹丕の嗜好に合致した。
曹丕を喜ばせたのは、それだけではない。
孟達は弁舌にもすぐれ、
――楽毅の器量がある。
と称える者も多かった。
もしかすると、曹丕が孟達を気にいったことを察し、群臣が追従したのかもしれない。
孟達が偉器であればあるほど、都合がよい。
そうおもう曹丕の欲望が大きければ大きいほど、孟達は過大評価された。
――蜀の将であった孟達がわれの徳を慕って帰服してきた。
魏は、孟達の帰服をおのれの徳を顕揚するものとして喧伝した。
孟達は散騎常侍・建武将軍に任じられ、平陽亭侯に封じられた。

新城太守

「劉封を討て」
孟達は、夏侯尚や徐晃とともに、曹丕からそう命じられた。
これは、孟達に手柄を挙げさせたいという曹丕の愛情から出たものであろう。
――劉封も、いまの立場をわかっておろう。
孟達は劉封に手紙を送り、魏への投降を勧めた。
しかし、劉封は応じなかった。
劉封は魏軍と戦う前に申儀(申耽の弟)にそむかれて成都へ敗走し、劉備から自殺を命じられた。
「孟子度(孟達)の言を採らなかったのが悔やまれる」
これが、劉封が遺した最後のことばであったという。
申耽は魏に降り、南陽に移住させられた。
申儀は魏興太守に任じられ、洵口に駐屯した。
魏は、房陵・上庸・西城の三郡を合併して新城郡とした。
孟達は新城太守に任じられ、西南部の鎮撫を命じられた。
孟達は新城に赴任したばかりのころ、白馬塞に登り、
「劉封や申耽は、金城千里の地を根拠としながら、これを失ってしまった」
と、慨嘆した。

蓬 矢

曹丕が魏王になると、蜀臣であった孟達が帰服し、版図が拡がった。
これが曹丕の徳のあらわれでなくて何であろうか。
――魏王は、天子にふさわしい威徳をそなえておられる。
魏は天下にそう喧伝し、献帝に譲位をせまった。
その契機ともなった孟達は、曹丕から福の神のように敬われ、寵愛された。
曹丕が外出時に輦に乗った際、孟達の手をとり、その背中を撫でて、
「まさか君は劉備の刺客じゃないだろうな」
と、からかいながら、輦に同乗させた。
孟達は、曹丕の厚情を実感する一方、群臣からむけられる視線に冷たいものを感じた。
それはそうであろう。
先代から苦労して仕えてきた自分たちを差し置いて、先日までの敵を厚遇するのはおもしろくない。
――孟達への厚遇は、度を過ぎているのではないか。
曹丕は朝廷から漏れでた不満の声を耳にすると、
「われがかれの異心なきことを保証する。
これも喩えてみれば、蓬の茎で作った矢で蓬の原を射るようなものだ」
と、孟達を弁護した。
蓬の茎云々はあまり耳慣れない表現であるが、「毒を以て毒を制す」と同意の成語であるらしい。
ともかくも、延康元年(二二〇年)十月に曹丕は献帝から帝位を禅られ、魏王朝を開いた。
孟達にとって、曹丕に仕えていたときが最も幸せであった。
劉璋には重用されず、劉備には恨まれるなど、これまで主君に恵まれなかった。
四十歳を過ぎてようやくおのれを買ってくれる君主にめぐりあえたといえよう。
まだ三十四歳と壮い曹丕の治世が長く続けば、孟達の末路は違ったかもしれない。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧