おはようからおやすみまで重耳をつけ狙った宦官 勃鞮(寺人披 閹楚)(春秋 晋)(2) 純忠
紀元前六三六年、重耳は十九年にわたる亡命生活を終え、君主として晋に帰国した。
これが、名君の誉れ高い晋の文公である。
重耳をつけ狙いつづけた勃鞮も帰国し、もとの持ち場に戻った。
文公は君主になると、旧恩に報いただけでなく、旧讎にも報いた。
しかし、勃鞮から受けた讎には報いなかった。
文公が長きにわたり彷徨した苦労を誇るのであれば、
勃鞮はその間かれを絶えずつけ狙った労苦を矜ってよいであろう。
亡命中の文公には、ともすれば現状に甘んじて腰が重くなるときがあった。
そんなかれが蒲や狄を去る契機となったのは、勃鞮の凶刃であった。
勃鞮の剣がかれの重い腰をあげさせ、覇者への途を啓いたといえよう。
人は、明の部分と暗の部分を併せもっている。
重耳という人物の明の部分を担ったのが狐偃をはじめとする重臣であるとすれば、
暗の部分を受け持ったのが勃鞮といえようか。
中国史人物伝シリーズ
目次
政 変
陰 謀
紀元前六三六年、勃鞮は七年ぶりに晋に戻った。
かれに重耳暗殺を命じた恵公は、すでに亡い。
何ごともなかったように後宮の警備に復帰した勃鞮は、
「疾く去れ」
と、同僚の宦官から勧められた。
自身を二度も殺そうとしたかれを、文公(重耳)は怨んでいるはずであり、晋にいれば、いずれ殺されよう。
しかし、勃鞮は去らなかった。
そんなかれを、晋人すべてが忌避した。
一方で、かれに近づいてきた貴人がいた。
恵公の重臣であった呂甥と郤芮である。
勃鞮は、二人に呼ばれた。
「そこもとにたのみたいことがある」
そう切りだしたのは、郤芮であった。
「なにか」
「公宮に火をつけてもらいたい」
呂甥が、低い声でそういった。
「それで」
「重耳が出てきたら、殺すのじゃ」
勃鞮が口を開こうとするまえに、
「どうじゃ。やってくれるか」
と、郤芮がたたみかけてきた。
断ることは許さん、といわんばかりの二人の形相である。
「わかった」
「そうか、そこもとの助力があれば心強い」
「で、決行の日は」
「己丑(三月二九日)じゃ」
それを聞いて、勃鞮は静かにうなずいた。
その眼があやしく光ったことに、二人は気づかなかった。
明 訓
勃鞮は二人と別れた後、持ち場である後宮ではなく公宮へゆき、
「君に目通りしたい」
と、謁者(取り次ぎの役人)に申し出た。
謁者は、血相を変えて奥へと消えた。
しばらくして、もどってきた謁者から、
「君は、お会いにならない」
と、告げられた。
――一大事なんだぞ。
そうおもうだけに、勃鞮は引きさがらず、
「臣は、君が君道をご存知になられたからご帰国なされたとおもうておりました。
いまなおご存知でないのでしたら、再びご出国なされることになりましょう」
と、迫った。さらに、
「君にお仕えして二心を抱かないのを臣といい、常人と好悪を同じくするのを君といいます。
君は君たり、臣は臣たり。これを明訓といい、これを最後まで行えるのが、民の主です」
と、つづけた。そうなると、文公は、
「君は明訓を行うことができず、君道をお棄てになられております」
と、いうことになる。勃鞮は、さらにことばをつづけた。
「あの時の君は蒲人、狄人であり、臣とは何の関係もありませんでした。君にとって悪いものを除くのは、
ただ力の限りを尽くすだけで、二心などありましょうや。いま君は即位なされましたが、
蒲や狄で受けた危難がないといえましょうか。
斉の桓公は、袂よりも近い帯鉤(止め金、バックル)を射られたのに、
怨み言ひとついわずに管仲を宰相に起用しました。
それにひきかえ、君のご器量はどうして寛大ではないのでしょうか。
人が好むものを憎めば、長く地位を保つことはできません。
君が桓公と違うとおぼしめしでしたら、臣は去らせていただきます。
さすれば、立ち去るのは臣だけではございますまい。
臣は刑余の身ゆえ、何も患えることはございませんが、
君におかれましては、臣を引見なさらなければ、後悔なさらないでしょうか」
ふだんもの静かな勃鞮が、ここでは雄弁に訴えかけた。
純良な心をもった忠臣、それが勃鞮の実像であった。
かれが重耳(文公)の生命を執拗に狙ったのは、君命を忠実に実行しただけのことであった。
君命に悪意が含まれていたために、実行行為も凶悪に染まってしまったのである。
「しっ、しばし待たれよ」
謁者は、衝かれたように文公のもとへ趨っていった。
漏 洩
謁者が勃鞮のいるところへもどってくるまで、今度はさほどかからなかった。
「君が、お会いなされる」
謁者のことばをきき、勃鞮ははじかれたように文公に謁見した。
「郤芮と呂甥が、君を亡き者にしようと謀っております」
勃鞮は文公に会うなり、そういって驚かせた。文公は勃鞮の眼をみて、
「そうか」
と、だけいい、駅伝の馬車に乗って、都城からひそかに脱け出した。
策士 策に溺れる
三月己丑(二九日)の夕、勃鞮は公宮に放火した。
火の手がまわるなか、勃鞮に近づき、
「やったか」
と、訊いてきたのは、郤芮と呂甥であった。
「ああ」
勃鞮の反応に、郤芮と呂甥はすっかり安心し、
「われらは、去る。なんじも疾く去るがよい」
と、勃鞮をねぎらい、火炎に包まれた公宮を後にした。
――明訓を行えないと、どうなるかな。
勃鞮は、去りゆくかれらを嗤笑した。
ふたりは秦の穆公をたよって王城へゆき、そこで斬られた。
文公はふたたび晋にもどり、本格的に聴政を開始した。
忠義を評す
翌年(紀元前六三五年)、晋は原邑を攻め降した。
「原をたれに授けようか」
考えあぐねた文公は、これを勃鞮にたずねてみた。
「趙衰は壺飧をもって君に従い、道に迷って君を見失えば、近道を通って追いつこうとし、
空腹になっても中のものを食べませんでした」
「さようであったか」
こうして、趙衰は原の大夫に任じられた。
勃鞮は文公の亡命中、その間隙を絶えずうかがっていた。
それだけに客観的に冷静に従者たちの行蔵を観察し、適正な評価をすることができた。
讎というべき人物の発言を容れた文公の処断も、たいしたものである。
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