“気違い先生”舌鋒をふるう 外交の達人 酈食其(前漢) (2) 緩頰
説客は、
”せっかく” あるいは ”ぜいかく”
と、読み、諸侯を説いて報酬を得る思想家である。
かれらの多くは貴人の顧問を務めたが、なかには官途に就く者もいた。
説得に成功すれば高禄にあずかれるが、失敗すれば殺される危険性をはらむ。
説客は、生命をかけて諸侯を訪ねた。
胆力がなければ務まらない知的労働といえよう。
中国史人物伝シリーズ
目次
緩 頰
紀元前二〇六年、項羽は関中に入ると、子嬰を殺し、諸侯を封建し、
「西楚の覇王」
と、称した。
漢王に封じられた劉邦は、韓信の策を容れて挙兵し、関中を平定した。
翌年、劉邦は周辺諸侯を従えて東進し、楚を伐ち、首都の彭城を陥とした。
ところが、楚軍の返り討ちにあって大敗する(睢水の戦い)と、
魏王の魏豹が母の病気を見舞いたいといって去り、帰国するや楚に寝返った。
「緩頰(おしゃべり)よ、魏王豹を説いてまいれ。降伏させられたなら、万戸侯に封じよう」
劉邦からそう命じられ、酈食其は魏へゆき、魏豹への説得を試みた。
しかし、魏豹は、
「漢王は傲慢で人を侮り、奴僕のように諸侯をののしり、礼節をわきわえぬ。
漢王に会うのは、もうごめんじゃ」
と、聴く耳をもたなかった。
酈食其が戻って復命すると、劉邦は、
「万戸侯になりそこのうたな」
と、いい、笑った。
これが、臣下の不首尾に対する劉邦なりのねぎらいなのであろう。
劉邦は魏豹への説得をあきらめ、韓信を将として魏を攻めさせた。
六国の復活
韓信は魏を平定し、さらに趙を滅ぼして燕を降し、斉に迫ろうとしていた。
一方、劉邦は楚軍に急襲され、滎陽で包囲された。
「なんとかして、敵を弱らせられないか」
劉邦からそう諮われた酈食其は、かねて抱懐していた封建制復活論を披露した。
「むかし湯王は桀を放伐し、その子孫を杞に封じました。武王は紂を誅伐し、その子孫を宋に封じました。
いま秦は無道で、六国を伐ち滅ぼし、錐を立てるほどの余地さえないようにしました。
もし陛下が六国の子孫をふたたびお立てなさるなら、みな陛下の徳を慕って臣従したいと願うでありましょう」
いかにも儒者らしい意見であるが、それが当時の思潮であったのかもしれない。
この進言に従い、劉邦は六国の子孫に与える印を刻ませたが、張良に諫められ、とりやめた。
絶 頂
奇 策
紀元前二〇四年秋、韓信が斉を攻撃しようとしていたとき、劉邦は楚軍に苦戦を強いられていた。
――いまこそ嚢中の錐にならん。
酈食其はそうおもいたち、
「いま、燕と趙はすでに平定され、斉だけがまだ降伏しておりません。
いま、田広は方千里の斉に拠り、田解は二十万もの大軍を率いて歴城におります。
田氏一族は強勢で海を背に、黄河・済水を前にし、南は楚に近く、人民は変節詐謀に富んでおります。
大王が数十万の大軍を遣ったとしても、短期に破ることはできません。
どうか大王の詔を奉じて斉王(田広)を説き、漢の東藩となるようにさせていただきましょう」
と、劉邦に願い出た。
「よろしい。やってみたまえ」
酈食其は劉邦の命を受け、斉へゆき、斉王田広に謁見した。
斉を降す
「王は、天下がどこに帰するかご存知ですか」
「知らぬ」
酈食其の問いかけに、田広は素っ気なく応じた。
「ご存知なら斉国を保てましょうが、ご存知ないなら保てないでしょう」
「天下がどこに帰するというのか」
「漢でございます」
「なにゆえか」
「漢王と項王は勠力して秦を撃ち、先に咸陽に入った者を関中王とする、と約束しました。
ところが、漢王が先に咸陽に入ったのに、項王は約束を破って漢王に関中を与えず、漢中の王にしました。
項王が義帝を遷して殺すと、漢王は蜀漢の兵を起こして三秦を攻撃し、
函谷関を出て項王に義帝の所在を問責し、天下の兵を収め、諸侯の子孫を擁立しました。
城を降せばすぐに将を候に取り立て、財物を得れば兵士たちに分け与え、
天下と利益を共にしたので、豪傑・賢才はみな喜んで漢王に従っております。
一方、項王には破約の汚名と義帝を殺した負い目があります。
他人の功労を認めず、他人の罪過は忘れません。
項氏でなければ、戦って勝っても恩賞が得られず、城を抜いても封地を得られません。
他人を諸侯に封じ、その印を彫っても、もてあそぶだけで授けることができません。
城を攻め、財物を得ても、貯蓄するだけで賞として与えることができません。
だから天下はそむき、賢士は項王を怨み、たれも従おうとしません。
ゆえに天下の士が漢王に帰服する、と容易に想像できるのです。
そもそも漢王が蜀漢を発して三秦を平定し、黄河を渡って上党の兵を収め、
井陘(関)を下って西安君(陳余)を誅し、北魏を破って三十二城を抜いたのは、
まさに神兵であり、人間わざではなく、天禄にございます。
今すでに敖倉の食糧を得て、成皋の険を塞ぎ、白馬の津(渡し場)を守り、
大行の阪(羊腸阪)を閉じ、蜚狐(関)の口を防いでおります。降伏が後れれば、先に滅びましょう。
王が疾く漢王に降られるなら、斉国の社稷は保てましょうが、
漢王に降らなければ、滅亡の危機がたちどころにやってまいりましょう」
酈食其は長広舌をふるった。その間、何度もうなずいた田広は、
「なるほど。仰せごもっともじゃ。漢につくといたそう」
と、いい、歴城の守備の解除を命じた。
それから連日のように、酈食其は田広から酒宴に誘われた。
かれは、美酒にもおのれの功にも酔いしれた。
戦わずして斉の七十余城を得ることができたのである。
いかな名将でも、これ以上の功を挙げることなどできようか。
酒好きのかれにとって、これが生涯でいちばんうまい酒であったのではなかろうか。
絶 望
「王がお呼びです」
酈食其は酒を呑んでいる最中に、突然、田広に召しだされ、
――はて、何ごとかな。
と、内心首をひねった。
「よくもたばかってくれたな」
微醺を帯びたまま謁見した酈食其は、田広に怒声を浴びせられた。
「はて、何のことでございましょうか」
「とぼけるな。漢軍が攻めてきたんじゃぞ」
「なっ、何ですと――」
漢軍の襲撃を聞かされて、酈食其の酔いが醒めてしまった。
――韓信か。
韓信には人を遣り、斉への攻撃を停止するよう伝えたはずである。
――韓信め。われの手柄が気に入らぬのか。
酈食其が脳裡で思考を整理していると、
「これを、どう説明いたす」
と、田広に訊かれた。
「こっ、これは何かの手違いです。韓信のところへゆき、止めてまいります」
「そういって逃げるつもりじゃないのか」
「うっ」
――もはやこれまでか。
酈食其は肚を決め、
「大事をなす者は小さなことにこだわらず、大徳ある者はつまらない遠慮はしない。
われは、なんじのために前言をかえたりなどせんわ」
と、開き直った。
「こっ、こやつを、煮よ――」
田広は酈食其を指さしながら、そう命じた。
――覚悟くらい、できとるわい。
酈食其は、従容と釜のなかにはいった。
煮られゆく酈食其の脳裡に去来したのは、何であったろう。
シェアする