孔子に”忠なり”と評された楚の名宰相 子文(闘㝅於菟)(1) 虎乳伝説
日本史上の人物で寅年生まれといえば、真っ先に思いつくのは上杉謙信(1530-78)である。
かれは、関東管領上杉憲政の養子になった際などに幾度か改名したが、
生涯を通して諱(本名)に”虎”の字を用い続けた。
かれはよほど"トラ"と縁があるのか、没年も寅年である。
中国南方の楚では、虎のことを"於菟"と呼ぶ。
日本人の名に”於菟吉”があるが、意訳すれば、”トラキチ” *になろうか。
中国にも、"於菟"の名をもつ人物がいる。
紀元前七世紀半ばに楚の令尹(首相)を務めた
闘㝅**於菟(あざなは子文)***
は、乳児の時に虎の乳で育てられたという逸話がある。
かれは、斉の桓公が覇者であった時から晋の文公が覇者になるまでの間に政権を担った。
危機に瀕していた国家財政を再建し、楚の版図を千里四方にまで拡げたかれは、
――忠なり(『論語』公冶長)。
と、孔子に評された楚の名宰相であった。
* 熱狂的な阪神タイガースファン
** 「穀」と記す書物が多いが、『説文解字』に「㝅は乳なり」とあり、
「㝅」が正しいと思われる。
*** 本名は闘㝅於菟であるが、ここでは、子文で通す。
中国史人物伝シリーズ
目次
虎乳で育つ
紀元前八世紀前半に楚の君主であった若敖は、䢵(鄖)国から夫人を娶った。
かの女は、闘伯比という男子を生んだ。
若敖の死後、闘伯比は母に連れられて䢵で育てられた。
その最中、闘伯比が䢵の公女に淫通し、懐妊させた。
生まれたのは、男児であった。
――汚らわしい。
䢵君夫人は不義の子として生まれた嬰児を忌み、雲夢沢に棄てさせた。
まだ生まれたばかりの児のことを想えば、哀れとしかいいようがない。
この児がいったい何をしたというのか。
無辜でありながら、生後まもなく草叢に遺棄され、ほどなく禽獣の餌食になったであろう。
ところが――、
雲夢沢で狩りをしていた䢵君が、ただならぬ様子で狩りから帰ってきて、
「恐ろしいものをみた」
と、夫人に告げた。
「いかがなさいました」
「とっ、虎が、あっ、あの児に、ちっ、乳を与えておったのじゃ」
――虎が乳を与えて育てていたということは、この乳児は天に生かされたのであろう。
そう考えた二人は、直ちに乳児を収容させ、育てることにした。
そして、乳児を生んだ公女を、正式に闘伯比に妻わすことにし、乳児を㝅於菟と名づけた。
このいっぷう変わった名は、楚の方言で、乳を㝅、虎を於菟ということからきている。
かれは、成人してから、
子文
というあざなをもった。
虎の皮の斑らな文様によったのであろう。
財政再建
子文は成王八年(紀元前六六四年)に楚の令尹(首相)になり、成王を輔佐した。
就任当初、楚は財政難にあえいでいたが、子文は家財を投じて国の財政を救った。
子文は、殖財に興味がなかったらしい。
成王が秩禄を出すといわれれば、かれは必ず逃げ出し、成王が出すのをやめるといってから戻ってきた。
宰相が秩禄を拒めば、ほかの者はみな俸禄をもらえなくなる。
「人生は富を求めるものなのに、なにゆえあなたは富から逃げるのですか」
ある人がたまりかねて、そうたずねると、
「為政者は、人民を庇うものです。人民に貧しい者が多いのに、われが富を取るのは、
人民を苦しめておのれに厚くするものであり、そうなればほどなく死ぬことになりましょう。
われは死を逃れようとするのであり、富を逃れるのではありません」
と、子文は応えた。
子文は、殖財より恤民を優先した人であった。
召陵の盟い
気宇の巨きな成王は、子文の善政で国力を充実させると、北のかた中原の攻略に乗り出した。
成王十三年(紀元前六五九年)から、楚は斉の盟下につくようになった鄭を毎年討伐した。
これが斉を刺戟し、斉の桓公が八か国からなる連合軍を引き連れて楚に侵攻してきた。
成王十六年(紀元前六五六年)のことである。
楚の朝廷に、緊張が走った。
斉の桓公が率いる十万超の大軍に対し、楚の保有戦力は兵車六百乗(四万五千人)しかない。
「いかがいたそう」
成王の諮問を受けた子文は、
「斉君は、信義の人です。それに、当たるべからざる勢いがございます。
いたずらに兵を動かすのは得策ではございません。和を請うのがよいでしょう」
と、進言した。
それに従い、成王は桓公のもとに使者を遣り、恭順の意を示した。
それでも桓公は兵を進め、陘に宿営した。楚の出方をうかがったのである。
成王が屈完を陘に遣り、桓公に和睦の意を伝えさせた。
桓公は全軍を召陵まで退かせ、屈完と盟いを交わしてから引き揚げた。
これで楚が版図拡大をあきらめたわけではない。
翌年、子文は出師し、斉を恃み楚に従わなくなった弦を滅ぼした。
盟主の座
成王二十九年(紀元前六四三年)に斉の桓公が亡くなると、
宋の襄公が諸侯の盟主になろうと野心をあらわにした。
しかし、宋の盟下に入ることを快くおもわない諸侯は、楚の成王を恃みにした。
そこで、成王三十一年(紀元前六四一年)に楚は斉、魯、鄭、陳、蔡と斉で会同をおこない、
――斉の桓公の徳を忘れないようにしよう。
と盟いあった。
翌年、随が楚に叛いた。子文は出師して随を討伐した。
成王三十三年(紀元前六三九年)、宋の襄公が楚の成王に会同への参加を呼びかけてきた。
――小国のくせに盟主を気取りやがって。
成王は会同の地である宋の盂へゆき、襄公を捕え、宋の領内を荒らしまわってから釈放した。
これで、諸侯は一斉に楚へなびいた。
翌年、鄭の文公が楚に入朝した。
宋が鄭をとがめて攻めこむと、鄭は楚に救援を求めた。
楚はそれを受けて宋に攻め込み、泓水で戦って大勝し、襄公に引導を渡した。
この戦いは、「宋襄の仁」の故事で人口に膾炙している。
これで、楚の成王が覇権を握った、といってよかろう。
むろん、成王が中原の経営に乗り出せたのは、子文の善政があったればこそであろう。
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