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中国史人物伝

漢への忠義を貫いた王莽の従兄弟 王閎(両漢・新)(2) 本懐

王閎(1)はこちら>>

漢王朝の外戚であった王莽が、漢から天下を簒い、新王朝を開いた。

しかし、従兄弟であった王閎は、皇帝の王莽に嫌忌され、地方へ出された。

――誅される。

常にそう懼れ、いつでも死ねるように毒薬を隠し持っていた王閎は、

激動の時代をどのように切り抜けたのか。

中国史人物伝シリーズ

目次

敗 亡

東郡太守になった王閎は、任地をよく治め、人民に慕われた。
一方、皇帝になった王莽は、『周礼』に基づき古昔の周王朝を理想とし、
地名や官職名を頻繁に改めたり、貨幣制度を幾度も改変したりした。
理想ばかりを追い求めたかれの改革は、実情とあまりにも乖離していたため、
国じゅうが混乱し、各地で叛乱が続発した。
王莽は叛乱を鎮圧できず、地皇四年(二十三年)、更始帝(劉玄)を擁する漢軍に攻められて殺された。
――われが仕えるべき君主は、このお方じゃ。
王閎は東郡の三十万戸超を全きの状態で更始帝に帰服し、沙汰を待った。

張 步

「王閎を、琅邪太守に任じる」
王閎は更始帝の下知に従い、さっそく琅邪郡へむかった。
しかし、郡内に入ることができなかった。
張步が琅邪郡を制圧し、王閎の赴任を拒んだからである。
――正義は、われにある。
王閎は檄を発して吏民に更始帝に降るよう説諭し、贛楡など六県を取り、兵を集めた。
王閎は、集まった数千人の兵を率いて張步と戦った。
しかし、張步の兵は勁強で、勝てなかった。
このころ、更始帝から梁王に封じられた劉永が、
張步を輔漢大将軍・忠節侯という爵位で取り込もうとしていた。
爵位に目が眩んだ張步は、これに応じ、劇県を本拠にして、山東の諸郡県を制圧した。
張步は版図を拡げ、麾下の兵の士気は日に日に盛んになった。
――これでは、部下が逃散してしまう。
と、懼れた王閎は、張步を訪ねて説伏しようとした。
――ともに更始帝の臣なのじゃから、義でもって説けば通じるはずである。
王閎はそう念い、会見に臨んだ。
張步は多数の兵をならべて王閎を引見し、
「われにどんな過ちがあって、君はあんなに激しく攻めてきたんじゃ」
と、怒声を浴びせた。
しかし、そのような威しに屈する王閎ではない。
王閎は剣把に手をかけながら、
「われが朝命を奉じて参りましたのに、あなたは兵を擁して拒まれました。われは賊を攻めただけです」
と、応えた。
張步はしばらく黙りこんでから、席を離れて跪いて謝った。
――理が通じる相手で、よかった。
王閎は、ほっと胸を撫でおろした。
張步は音楽を演奏し、王閎と酒を酌み交わした。
「もっと早う君に会っておくべきじゃった」
会話を交わすうちに、王閎は張步から気に入られたらしく、上賓の礼での待遇を受け琅邪郡をまかされた。

真の天子

天鳳五年(一八年)に赤眉の乱が勃こってから、各地で叛乱が続出し、群雄が割拠した。
その中で、更始帝を殺した赤眉を降し、関中を平定した光武帝(劉秀)の勢力が大きくなり、
劉永の支配領域と接するようになった。
建武三年(二七年)、張步は天子を自称した劉永から斉王に封じられ、斉の十二郡を支配した。
この年、劉永が光武帝の部将に攻められて敗走し、部下に殺された。
「劉紆さまを、天子に立てよう」
張步は、そういいだした。劉紆は、劉永の子である。
――この朝廷で、われは定漢公となり、百官を置きたい。
そう望んだ張步を、王閎が諫めた。
「梁王(劉永)が漢朝を奉じていたので、山東は帰順していたのです。いまその子を天子に擁立すれば、
みなの心を疑わせてしまいましょう。また、斉人は詐りが多いと申します。よくお考えなさいませ」
天下の情勢をみればよい。
天命が光武帝にあることは明らかである。
それなのに、別に天子を立てることは、天に唾するような行為である。
王閎は、張步が王号を称えていることも言外に批判していた。
天下は劉氏のものであるから、劉氏でない者は王号を称してはならない。
そうやって、漢王朝は王莽に簒奪されるまで、二百年以上天下を統治した。
張步はいま危険な立場にある。それだけに、正道を踏み外してもらいたくはない。
王閎は、自分に大度をみせてくれる張步に心酔していた。
敬慕する張步に逆賊になってもらいたくはないし、王閎自身も張步に従って反逆に加担したくない。
王閎は、諫言に張步への篤志をにじませた。
それが通じたのか、張步は劉紆の天子擁立をあきらめた。

血胤を保つ

光武帝の勢力が劉紆を滅ぼし、山東にも及ぶようになった。
建武五年(二九年)、光武帝が劇県に親征してきた。
張步は平寿へ逃げたものの、抗しきれずに降服した。
王閎も劇へゆき、光武帝に降服した。
――やっと、天意にかなうことができたわい。
これが、王閎の本心であったのではなかろうか。
のちに光武帝は、
「王閎は善行を修めて謹み深く、漢の兵が起ったときも、吏民はかれの首だけは争わなかった」
と、詔をくだし、王閎の子を官吏に取り立てた。
光武帝は、王閎が漢王朝に忠義を尽くしたことを評価してくれていたのである。
王氏の血胤は、後漢時代においても保たれた。

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