暗君に仕える能臣の悲哀 昭雎(戦国 楚)(2) 全知全霊
楚の懐王は、目先の利得にばかりこだわるあまり、張儀の甘言に欺罔され、
秦と戦って大敗し、多大な版図を削損させてしまった。
そんな暗君を、説客の陳軫ら有能な人材が見限り、国外へ去ってしまった。
陳軫ら他国出身者とは違い、祖国を棄てるわけにはいかない王族出身の昭雎は、
懸命に懐王を支え抜いた。
それでも、楚の弱体化は止まらない。
全知を傾けながらも浮かばれない昭雎の労苦が偲ばれよう。
中国史人物伝シリーズ
目次
猫の目外交
楚の外交は、秦と斉のあいだで揺蕩した。
懐王二十年(紀元前三〇九年)に、斉の湣王から書簡が届き、斉・韓・魏と結ぶよう勧められた。
「どうしたものか」
懐王が群臣に諮ったところ、親秦派と親斉派に分かれて議論が紛糾した。
「深く斉・韓と親しみ、秦の樗里疾を重んじられるのがようございます。
樗里疾は斉・韓で重んじられており、さらに楚までもが重んじれば、秦王は樗里疾の意見を聞き棄てにできず、
樗里疾は必ず秦に取りなして楚から奪った土地を還してくれましょう」
昭雎は懐王にそう進言し、親斉策をとらせた。
ところが、懐王二十四年(紀元前三〇五年)に、楚は斉と断交して秦と結び、翌年秦王と黄棘で会盟した。
このとき、秦は楚に上庸を割譲している。
この変節ぶりに怒った斉に攻め込まれると、懐王は太子横を秦へ人質に出して保庇を求めた。
しかし、横が秦の大夫と争ってこれを殺して逃げかえると、秦との関係が険悪になった。
懐王二十八年(紀元前三〇一年)、秦が斉・韓・魏を誘って楚に攻めこんできた。
この戦いで重丘を失った楚は、翌年にも秦に攻められて大敗した。
懐王は恐れ、太子横を斉に人質に出した。
武 関
懐王三十年(紀元前二九九年)、秦の昭襄王から書簡が届き、
「武関で会合し、盟約しましょう」
と、もちかけられた。懐王は、この書を読み、
――往けば欺かれるかもしれない。かといって、往かなければ秦の怒りを買おう。
と、思い悩んだ。
「王はお出かけにならず、国を守るに限ります。秦は虎狼であり、信用できません。
諸侯を併呑せんとの野心をいだいております」
昭雎は、そう主張して会盟に反対した。
しかし、懐王は子の子蘭の意見に背を押されて武関へゆき、欺かれて捕えられてしまった。
事の重大さに、楚の大臣たちはこぞって頭をかかえた。
「王は秦にいて還ることができず、領地の割譲を強要されている。太子は斉に人質になっている。
斉と秦が共謀すれば、楚は滅ぼされてしまおう」
かれらが額をそろえて対策を話し合った結果、
「国内にいる王子を、王に立てよう」
と、決しようとした。しかし、そこに昭雎が、
「王も太子も国外で苦しんでおられる。それなのに、いままた王命に背いて庶子を立てるのはよろしくない」
と、異議を差しはさんだ。そこで、大臣たちは斉に使者を遣り、
「王が薨じられました」
と、偽って告げて、太子横を帰国させ、王位に即けた。これが頃襄王である。
補 遺
頃襄王即位後の昭雎の消息は不明であるが、
かれに国策ばかりか国王について発言できるほどの権力を有していたことは注目に値しよう。
斜 陽
秦に捕えられた懐王は帰国することもかなわず、三年後に咸陽で客死した。
ものごとの本質を看抜く努力を怠り、場当たり的な施策に終始したつけがまわってきたといえよう。
代が替わっても、旧態を革められない楚の弱体化は止まらなかった。
頃襄王二十一年(紀元前二七八年)に、楚は秦に攻められて首都の郢を陥とされた。
そのため、東のかた陳城への遷都を余儀なくされた。
応 報
それにしても、昭雎について記していながら、懐王の愚昧ばかりが際立つのはどうしてであろうか。
昭雎をはじめ、陳軫、屈原ら賢臣を従えていながら、説客の能弁に翻弄されて目先の利得にばかりこだわり、
国を傾けてしまった。
懸命に支えているのに浮かばれない昭雎の労苦が偲ばれる。
楚滅亡の遠因は、懐王の治世にあった。
そういって過言ではないであろう。
だが、懐王の憫然な末路が楚人に秦への怨恨を搔き立て、陳勝・呉広らの決起を契機に、
項梁や項羽ら反秦勢力の駆動力となり、秦を滅ぼしてしまうのもまた因果なのであろうか。
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