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中国史人物伝

愛すべき楽天家 蘇軾(蘇東坡)(北宋) (4) 王安石の新法

蘇軾(蘇東坡)(3) はこちら >>

蘇軾は高級官僚への出世街道に乗りながらも、二度にわたる服喪と新しい任用規定により

思うように出世できなかった。

服喪中に皇帝の代が替わり、二十歳の気鋭の神宗が帝位に即いていた。

――新帝の治世で、風向きが変わろう。

蘇軾は喪を除くと、そう期待しつつ、都へのぼった。

しかし、官界に復帰したかれに、猛烈な逆風が襲いかかろうとしていた。

中国史人物伝シリーズ

蘇軾(蘇東坡)(1) 大志
蘇軾(蘇東坡)(2) 科挙

目次

国 難

父蘇洵の喪を除いた蘇氏兄弟が都にもどり、職務に復帰したのは、熙寧二年(一〇六九年)のことである。
宋朝の政事は、一変していた。
四十二年にわたる仁宗の治世で宋の経済は発展したが、国家財政は危機に瀕していた。
軍事費と官僚への人件費が嵩んだ上に、資産家や土地所有者が脱税や資産隠蔽といった
税金逃れをおこなっていたのである。
宋の統治機構の根幹を占めたのは、資産家や土地所有者など地方の新興勢力から出た士大夫である。
かれらが、身内の不法行為を取り締まれるわけがない。
しかし、それでも財政難を克服したい政府は、それを民に押しつけた。
増税を断行したのである。
人民への負担の増加は国家の危機を回避するどころか、政局をさらに不安定にした。
この「積貧積弱」の状況を改善するため、改革への要求が日増しに強まってきた。
この声に応えようとしたのが、神宗であった。
政治を改革し、国難を解決しようとの強い意志をいだいたかれが嘱目したのは、
長く地方官を歴任してきた王安石であった。

新 法

熙寧二年(一〇六九年)二月、神宗は王安石を参知政事(副宰相)に任じた。
改革に燃える王安石は、特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指すべく、
制置三司条例司を設置し、新法の立案にとりかかりはじめた。
――新政府は、われを必要としよう。
そう期待した蘇軾が任じられた官職は、殿中丞直史館判官告院であった。
――どうやらわれは王介甫(王安石)によくおもわれていないらしい。
と、蘇軾は苦笑するしかなかった。
一方、弟の蘇轍は制置三司条例司として、改革の中枢に入って新法に参画した。
しかし、蘇轍は、新法のうち最初に実施した均輸法(政府が地方物資を買い上げる制度)に反対したため、
河南府の推官(次官)に左遷された。

旧法派

王安石は矢継ぎ早に新法を制定し、改革を断行した。
王安石の改革は、当代の政事の撞着を衝いたものであった。
新法は農民の民力を向上させる一方、私腹を肥やす役人や大商人らの利権を停止し、国家財政の充実を図った。
官僚の多くは、新法により既得権益を侵されてしまうため、
「苦労して科挙に通ったのに、これでは報われないじゃないか」
と、反対の声を挙げた。
その主唱者が司馬光であり、欧陽脩も新法に反対するなど、その声は瞬く間に朝廷内に拡がった。
富弼ら重臣は急進的な王安石と意見が合わず、続々と朝廷を去っていった。
改革の内容が詳らかになるにつれて、蘇氏兄弟は様々な疑問をいだくようになり、問題点を指摘していった。
改革に反対する者らは旧法派と呼ばれ、いつしか蘇軾はその中心人物と目されるようになった。

拝 謁

王安石の改革の一つに、官僚登用制度の大幅な変革もあった。
王安石は教育機関を充実させ、学校の卒業資格で科挙(省試)に替えようとした。
科挙は、官僚に必要な能力を試す試験になっておらぬ。
それよりも、学校で実務能力を養成された者を官僚にした方が国家のためになる。
王安石はそう考え、学校貢挙(太学からの役人の推挙)を見直そうとした。
その提案があまりにも変革であったため、神宗は、
「学校と科挙の利害を検討し、おのおの意見書を出すように」
と、群臣に意見を求めた。熙寧三年(一〇七〇年)のことである。
これに応じ、蘇軾は意見書を作成した。
「学校や科挙は今のままで十分です。これらを変えようとする議論はほんの一面しかみておりません。
学校制度は古昔から続いてきたものであり、儒学の尚古主義に根差すものです。
制度に欠陥があったとしても、すぐれた人材が集まっているのであるから、
あわてて変える必要はございません」
――朕が気にしておったのは、これなんじゃ。
神宗は蘇軾の意見に感心し、蘇軾を呼び、直接その考えを聞くことにした。
――これは、またとない好機じゃ。
三十四歳の蘇軾は、意気込んで二十二歳の青年皇帝への謁見に臨んだ。
「今の政治の得失はどこにあるのか」
「あまりにも性急に効果を求めようしており、臣下を速く昇進させすぎです」
神宗の諮問に、蘇軾は臆することなく意中を述べた。
神宗は満足げにうなずき、
「よく考えよう」
と、応じた。
拝謁を終え、蘇軾は手ごたえを感じながら退出した。
しかし、何の沙汰もなかった。

新法批判

蘇軾は、新法が発せられるたびにその欠点を批判した。
しかも、それは改革の問題点を鋭く衝いたものであった。
熙寧三年(一〇七〇年)末に宰相に任じられた王安石が、
翌年に募役法(農民への労役を納銭で免除し、その銭で労役に従事する者を募集する制度)を制定すると、
「募役法が行われたら、金持ちの百姓におごらせることができなくなり、役人になった甲斐がなくなる」
と、蘇軾は反対した。
――辺地の役人が利益を欲しがるのは仕方がない。
これが、かれの意見である。
おなじ年、王安石は科挙の改革に乗り出した。
すなわち、科挙の法を改め、試験科目を、詩賦(作詩)の能力を問う進士科のみにしようとした。
しかも、自著を試験の標準書にしようとした。
これにも、蘇軾は反対した。
王安石ら改革派は反対意見に耳を貸さず、次々に新法を制定し、改革を断行した。
蘇軾は王安石の改革に反対し、
「制度を変えるのではなく、制度を充実させるべきです」
と、進言した。
改革全般に疑問をいだく蘇軾は、根本に立ち返って議論し直すことを望んだ。
しかし、改革派はそんな議論などとっくにすんでいると聞く耳をもたない。
このころになると、朝廷は新法の賛成派と反対派にわかれて、政策の争いは次第に党派の争いになってきた。
そのようななか、蘇軾はしばしば上書しただけでなく、直接神宗を説いたり、批判の詩を作ったりした。

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