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中国史人物伝

漢への忠義を貫いた王莽の従兄弟 王閎(両漢・新)(1) 硬骨

紀元前三世紀末に劉邦(高祖)が建てた漢王朝は、

『三国志』で知られる三国時代が開幕するまで四百年にわたり中国を統治した。

しかし、その中間で十五年ほど断絶している期間がある。

その期間、漢帝室の外戚であった王莽が皇帝となり、中国を統治していた。

ふつうであれば、王莽が皇帝になれば、その一族である王氏が幅を利かせるが、

王氏でありながら王莽から忌み嫌われた人物がいた。

王閎である。

王莽の従兄弟であるかれは、持ち前の才知を発揮して漢王朝への忠義を貫いた。

そのおかげで、王莽に煙たがられ、遠ざけられたものの、

光武帝(劉秀)により復興を遂げた漢においても王氏の血胤を保つことができた。

中国史人物伝シリーズ

目次

外戚王氏

王閎は魏郡の出身で、王莽の叔父である平阿侯の王譚の子であった。
王氏の興隆は、王莽の伯母である王政君が元帝の長子劉驁を生み、皇后に立てられたことが契機である。
劉驁が皇帝(成帝)となると、王氏が外戚として高位に連なった。
ところが、成帝が子なくして亡くなり、甥である哀帝が即位すると、血縁関係のない王氏は衰えた。
しかし、王氏がみな不遇を託ったわけではない。
哀帝が太子であったときに庶子として仕え、気に入られていた王去疾が、
哀帝の即位後に侍中騎都尉(皇帝に近侍する武官)に任じられた。
そのおかげで、王去疾の弟である王閎も中常侍(侍従)に引き立ててもらえた。

忠 義

断 袖

哀帝は董賢という舎人を寵愛し、起居をともにした。
董賢は、自他ともに認める美貌の持ち主であった。
あるとき、哀帝は董賢とともに昼寝をしていたが、哀帝がさきに目を覚ました。
哀帝の袖の上で、董賢が気もちよさそうに眠っていた。
――起こすに忍びない。
そう気遣った哀帝は、袖を断ち切って起きた。
この故事から、「断袖」ということばが生まれた。
断袖は寵愛が深いことの譬えであるが、男色や男性の同性愛を意味する場合もある。
それほどまでに董賢を寵愛した哀帝は、董賢を大司馬(国防長官)に任じた。

勅 勘

あるとき、哀帝は麒麟殿に董賢の一族を招いて宴を催した。
そこには、王閎兄弟も側に侍った。
気のおけない者ばかりがそろっていたせいか、哀帝は愉しそうであった。
宴が酣になった。
哀帝が董賢に微笑みかけながら、
「朕は、堯が舜に禅ったのに見習おうとおもうておる」
と、告げた。
――なんたることを――。
すかさず王閎が進み出て、
「天下は高皇帝(劉邦)のものであり、陛下のものではございません。陛下は宗廟を承けつがれ、
ご子孫に無窮にお伝えになられるべきです。天下を統べる業は至って重いもの、天子に戯言などございませぬ」
と、強諫した。
哀帝は黙然として悦ばず、左右の者はみな恐れた。
「とっ、疾く去れ――」
王閎は外に連れ出され、以後ふたたび宴に侍らせてもらえなかった。
その後も、子のない哀帝は董賢に帝位を禅譲する意思をたびたび表明した。
そのたびに王閎は哀帝に諫言を呈しては、勘気を被った。

璽 綬

元寿二年(紀元前一年)、哀帝は危篤に陥った。
哀帝はかたわらで不安げにしている董賢に、璽(印)と綬(紐)を手渡し、
「みだりに人に与えてはならぬ」
と、いい残した。
哀帝が崩御すると、王閎は、
「大司馬賢が、璽綬をもっております。奪回いたしとうぞんじます」
と、おばである王太皇太后に願い出た。
王閎は許可を得ると、剣を帯びたまま宮中の門へむかい、
「主上がおかくれになり、後嗣ぎがまだ立たれていない。公は深く重い恩を受けたんだから、
突っ伏して号泣すべきなのに、璽綬を持って禍を待っているとは何事か――」
と、董賢を叱りとばした。
董賢は跪き、璽綬を王閎に渡した。
王閎は、璽綬を王太皇太后に奉呈した。
董賢は官爵を剥奪され、自殺した。

王莽の時代

専 横

哀帝が亡くなり、平帝が即位すると、王莽が専権をふるうようになった。
王莽は、おのれになびく者ばかりを高位に据えた。
一方、従兄弟でありながら漢室の正統を保たせたはずの王閎は遠ざけられた。
――われは、巨君(王莽のあざな)に嫌われているらしい。
王閎は、内心苦笑した。もともとかれは王莽とは折り合いがよくなかった。
王莽は位人臣を極めても飽き足らず、平帝が亡くなると、あからさまに帝位を窺うようになった。

新王朝

居摂三年(八年)、王莽が禅譲を受けたとして皇帝となり、新王朝を開いた。
この王朝において、王閎は東郡太守に任じられた。
王閎は封建されることを期待していたわけではないが、叙任を受けて失望した。
秦王朝を除き、皇帝は一族を各地に封じ、諸侯に取り立てて王朝の藩屏にしてきたが、
王莽は従兄弟の王閎を役人として都から出した。
王莽はおのれの声誉を高めるためであれば、おのれの子を殺すことさえためらわない男である。
従兄弟のことなど、何ともおもっていないであろう。
王莽は外見は寛大にふるまっているが、その実、剛直な人物を内心忌み憚っていた。
哀帝に幾度となく強諫し、漢室の正統にこだわった王閎が、漢を簒奪した王莽に親しみをみせるわけがない。
王莽は、王閎を煙たがった。
王莽がおこなった人事は、図讖と呼ばれた予言書に基づく適当なものでしかなかった。
――この王朝は、長続きしまい。
王閎は胸裡でそう毒突きながら、任地へ赴いた。
――われは、誅される。
常にそう懼れていた王閎は、赴任後、いつでも死ねるように毒薬を隠し持っていた。

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