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中国史人物伝

該博の賢人 叔向(春秋 晋)(2) 古の遺直

叔向(1)はこちら>>

叔向は暗君としかいいようのない平公を訓導しつつ、

宰相の韓起からは"ご意見番"として頼りにされた良心的な存在であった。

あるとき、韓起が貧乏であることを憂えていると、叔向がそれを賀った。

韓起がわけをたずねると、叔向は、

「欒氏は富んでおりましたが、徳がないので、追放されました。

貧乏であれば徳を布くことができます。それゆえ、賀ったのです」

と、応えた。韓起は拝稽首し、

「亡びるところを、あなたのおかげで永らえることができました」

と、感謝した。

また、叔向は、

――君子は比して別たず(『国語』晋語八)。

ともいっている。

かれによれば、徳に励み助け合うことを比といい、

徒党を作っておのれを貴くし、おのれを利して君主を忘れることを別というらしい。

この発言で、君主をないがしろにして権力争いにかまける大臣らを痛烈に批判したのであろう。

中国史人物伝シリーズ

古の遺直

目次

善に倣う

平公二十一年(紀元前五三七年)、晋の公女が楚の霊王に嫁入することになった。
宰相の韓起が公女を楚まで送り届け、叔向が介添えとしてこれに同行した。
――叔向に恥をかかせてやろう。
饗宴で霊王は叔向に対して驕った態度で臨み、ことあるごとに難事をふっかけてやり込めてやろうとしたが、
できなかった。
そこで、叔向を手厚くもてなした。
霊王は、弟の王子棄疾(後の平王)を使者として晋に返礼させた。
この場合、国境まで賓客を出迎えるのが礼である。
しかし、平公はそうしようとしなかった。
韓起が楚を訪問した際に、楚の出迎えがなかった。
それゆえ、出迎えなくてよいとおもったのである。
ところが、叔向が、
「楚が邪なことをしても、晋は正しいことをいたしましょう。他人の邪を手本にしてはなりませぬ。
匹夫も善事を行えば、人民はそれを手本とします。国君であればなおさらでしょう」
と、諫言を呈した。
平公は悦び、棄疾を出迎えることにした。

「遺愛」対「遺直」

――古の遺愛なり(『春秋左氏伝』昭公二十年)。
孔子からそう敬仰された子産は、鄭の宰相になると、つぎつぎに大胆な国政改革を断行した。
平公二十二年(紀元前五三六年)には、刑法の条文を鼎に彫りつけて(刑鼎)、人民に示した。
これが中国で初めて制定された成文法であるとされる。
それまで法は不文法(正確には、不文”律”)であり、貴族の間で礼に基づいて慣習的に運用されてきた。
法を知れば、人民はその抜け道を探そうとするであろうし、法を政府を批判する根拠にされかねない。
そのため、為政者は人民に法を知らせなかった。
ところが、刑鼎により、人民も法を知るようになった。
鄭で刑書が鋳られたと聞き、叔向は、
――それでは犯罪は止むどころか、かえって助長してしまうのではないか。
と、危惧し、たまらず筆を取り、子産に書翰を送った。
「あなたに期待しておりましたが、もうやめました。民は争いの端緒を知ってしまいました。
やがて礼を棄てて法文を盾にするようになり、些細なことでさえも争おうとするでしょう。
訴訟が増え、賄賂が横行し、あなたがお亡くなりになれば、鄭はつぶれてしまいましょう。
国が亡びようとする際には必ず規制が多い、と聞きますが、こういうことをいうのでしょうか」
叔向は子産の身を案じ、刑鼎の弊害を説いたのである。
――国がまさに亡びんとすれば、必ず制多し(『春秋左氏伝』昭公六年)。
とは、言い得て妙であろう。しかし、子産は、
「おっしゃる通りです。われは不才で、とても子孫のことまで考えが及びません。
われは現世を救おうとしているのです。仰せを承ることはできませんが、ご親切を忘れたりはいたしません」
と、返書し、考えを改めなかった。
かつては君主の意向で国歩を定めることができたが、この頃になると、どの国でも大夫が政治を担っている。
そして、いまや人民の意思を無視して政策を決められなくなってきている。
そのことがわかっている子産は、当時においては珍しい開明的な為政者であったといえよう。

平公の死

平公二十六年(紀元前五三二年)、平公が亡くなった。
「晋の公室は、末世である。人民が疲弊しているのに公室は贅沢にふけり、道に餓死した者が連なっているのに寵姫の実家は富み栄えている。政権は大夫の手に渡ってしまった。君は行いを改めず、歓楽にふけることで憂いを紛らわせている」
叔向が発したこのことばが、晋の現状と平公の素行をいい中てている。
平公は晋のさいごの名君と謳われた悼公の子として生まれながら、女と音楽を好んだ暗君であった。
幼くして君主になったとはいえ、長じてからも実権を握らせてもらえず、権勢を競い合う大臣たちを
統御できないもどかしさが、平公から政治への情熱を奪い、淫楽に走らせたといえなくはない。
現実を直視することから逃げたといってよい。
『韓非子』によれば、平公は、叔向が国事を奏上している間、ふくらはぎが痛み、足がしびれて攣っても
我慢して正座を崩さなかったといわれる。
平公は士の遇し方を心得ていたため、叔向や当代最高の楽師といわれる師曠ら賢臣の輔佐を受け、
かろうじて地位を保つことができた。
かれは晩年に豪華な虒祁宮を造ったが、君主の権威を誇示しようとした宮殿の造営が、人民の怨みを買い、
かえって君主の権威を低下させてしまったのは皮肉としかいいようがない。
平公の子の昭公が、晋の君主となった。

古の遺直

申公巫臣の子である邢侯が、雍子と鄐の田地をめぐって争った。
昭公四年(紀元前五二八年)、宰相の韓起は、叔魚(羊舌鮒)に裁定を命じた。
証拠を集めてゆくと、雍子の方に非があることが判明した。
雍子は、不利を打開するため、
――女を嫁がせるから勝たせてほしい。
と、叔魚に頼み込んだ。
あろうことか叔魚はそれを容れ、無辜の邢侯を有罪と断じた。
邢侯は激情にかられ、叔魚と雍子を殺してしまった。
韓起はこの事件の処理に苦慮し、叔向に相談した。
ここで韓起が相談した相手に叔向を択んだのは、どういうことか。
叔向からすれば、当事者の一方は同母弟であり、他方は妻の兄弟である。
この事件に関して、最も冷静な判断ができなさそうな立場にいるのが叔向なのである。
それをわかって諮うたのであれば、韓起は叔向を試したのであろうか。それとも、
――こうなったのは、なんじが家内を治めきれなかったからであろう。
と、当てこすっているのであろうか。後者としたら、もはや諧謔といってよい。
叔向の断罪は明快であった。
「三人は同罪です。生きている者を誅し、死んだ者はさらしましょう」
韓起がわけを問うと、叔向は、
「雍子は自分が悪いと知りながら贈賄して勝利を買い、鮒(叔魚)は判決を枉げ、
邢侯は勝手に人を殺しました。みな同罪です」
と、応えた。
こうして、邢侯は死刑となり、雍子と叔魚の死骸は市場にさらされた。
この処置について、孔子は、
――叔向は、古の遺直なり(『春秋左氏伝』昭公十四年)。
と、評した。
弟に対しても私情を挟まずに厳粛な態度を取ったので、昔の人のような正直者である、としたのである。

枝葉落つ

紀元前五六二年から三十六年にわたり史書に登場した叔向の記事は、紀元前五二七年を最後に途絶えた。
叔向は楊邑を食邑として賜ったことから、楊肸とも呼ばれる。
羊舌氏は、かれの子の楊食我の代で滅ぼされてしまう。
――公室が衰えんとするときは、宗族の枝葉がまず落ち、公室がその後に続く、と聞きます。
叔向は晏嬰にそう語げたが、果たしてその通りになってしまった。
羊舌氏が滅亡し、弱体化する公室を支える勢力は存在しなくなった。

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