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中国史人物伝

名将の子も名将⁉ 敵に酒薬を送る 陸抗(三国 呉)

『三国志』で呉の名将として有名な陸遜を父にもち、

文人として名高い陸機・陸雲兄弟の父でもある陸抗は、

父に引けを取らない旗鼓の才の持ち主であり、

暴君としかいいようがない孫晧ですら、かれを憚ったという。

晩年の敵将 羊祜との親交は、乱世にありながら清々しさを感じさせる。

――父にいささか劣る。

正史『三国志』にはそう評されるが、

かれが幼君や暴君のもとで衰えゆく国を支えていたことを想えば、

英主のもとで驥足を伸ばした父との比較は、君主の器量の差を考慮してすべきではなかろうか。

かれが生きていた間、呉は存続できたが、かれが亡くなると呉は滅んでしまった。

呉からすれば、最後の守り手であったかれの存在は、

世界平和の観点からすれば、天下統一の障碍であったともいえなくはないが、どうであろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

父の名誉を回復

陸抗は陸遜の次子で、あざなは幼節。母は、孫策の女であった。
兄の陸延が早世したため、かれが陸遜の嫡子となった。
赤烏八年(二四五年)に陸遜が二宮事件に巻き込まれ、孫権に譴責されて憤死した。
このとき二十歳であった陸抗は建武校尉に任じられ、父の配下であった兵士五千人を引き継ぎ、武昌に駐屯した。
父の棺を故郷へ移して葬ると、首都建業へゆき参内し、任官への感謝の辞を述べた。
孫権は、まだ陸遜を疑っていた。
それゆえ、廷臣に陸遜への疑事を陸抗に詰問させた。
陸抗は余人を交えずに廷臣に応対し、たれに相談することなく、理路整然と答えた。
そのため、孫権は勘気を解いた。
翌年、立節中郎将に昇進した陸抗は、諸葛恪と任地を交換し、柴桑に駐屯した。
陸抗は武昌を補修して諸葛恪に引き継いだが、諸葛恪は柴桑を傷んだ状態にしたまま離れてしまったため、
武昌に入るとひどく恥じ入った。
太元元年(二五一年)、陸抗は罹病し、都へ戻って病気を治した。
治癒して任地に戻る際、孫権は涙を流して別れを惜しみ、
「われは先に讒言を信じ、そなたの父にひどいことをし、そなたに申し訳なくおもうておる。
問責状をすべて焚き、他人にみせないでほしい」
と、懇願した。

昇 進

建興元年(二五二年)、孫権が亡くなり、孫亮が皇帝になると、陸抗は奮威将軍に任じられた。
翌年に諸葛恪が誅殺されると、その姪であった妻を離縁した。
太平二年(二五七年)、魏の諸葛誕が叛乱を起こし、寿春の城を挙げて呉に降服し、援軍を要請した。
柴桑の督に任じられた陸抗が、援軍を率いて寿春へ赴くと、魏の牙門将や偏将軍を破り、征北将軍に昇進した。
永安二年(二五九年)、鎮軍将軍に任じられ、西陵の関羽瀬から白帝城までの地域の軍事の総指揮をとった。
四年後に蜀(蜀漢)が魏に滅ぼされると、その翌年、勅命により永安城(白帝城)を包囲したが、魏の援軍が到ると引き揚げた(さらにその翌年、魏は晋に禅譲した)。
孫晧が皇帝になると、鎮軍大将軍を加えられ、益州牧の任務を担当した。
建衡二年(二七〇年)に大司馬の施績が亡くなると、陸抗は楽郷に役所を置き、信陵・西陵・夷道・楽郷・公安における軍事の総指揮をとった。
陸抗は政治に問題が多いことを聞き、深く憂え、上疏して一七か条の方策を提言した。
また、孫晧の寵臣である何定や宦官が政治に容喙していたので、遠ざけるよう諫訴した。

西陵の戦い

包囲陣

鳳皇元年(二七二年)、西陵の督であった歩闡が呉に叛き、晋に降服した。
陸抗はただちに西陵にむかうと、夜を日についで包囲陣を造らせた。
「そんなことをしなくても、いますみやかに歩闡を攻めれば、晋の援軍がくるまえに歩闡を破れましょう」
諸将がそう異見を述べ、攻撃命令を出すよう求めた。
「城は堅固で食糧も十分にあり、防備も万全である。みなわれがやったことじゃ。ゆえにすぐに陥とすことはできぬ。援軍がくるまえに備えなければ、どうやって防ぐつもりか」
陸抗はそう返し、攻撃を許さなかった。
それでも諸将からの要請が相次いだので、一度だけ攻撃を許可したが、何の戦果も挙げられなかった。
諸将は陸抗の考えに納得し、包囲陣を完成させた。
その頃、晋の車騎将軍である羊祜が、江陵を攻める気配をみせた。
「江陵へむかいましょう」
諸将はそろって陸抗にそう進言した。だが、陸抗は、
「江陵は城が堅固で兵も十分おるゆえ、心配無用じゃ。敵が江陵を陥としたとしても、守り切ることはできぬ。西陵を奪われれば、南方の異民族は動揺し、その処理に苦慮しよう。江陵を棄ててでも、西陵を衛るべきじゃ」
と、主張し、陣中にとどまった。

知恵くらべ

陸抗は江陵の督である張咸に命じて、堤を築いて水を堰き止め、敵襲と味方の離反投降を防がせていた。
羊祜は水が堰き止められているのを利用して、船で食糧を江陵へ運びこもうとして、
――堤を切って歩兵を通す。
と、喧伝した。すると、陸抗は、張咸に命じて堤を切らせた。
このため、晋軍は船を使えずに、車で食糧を運ばざるを得ず、大変な労力を割くことになった。
晋の荊州刺史である楊肇が西陵に到ると、敵陣に駆け込む部将すらあらわれた。
「敵が攻めるとすれば、異民族がいるところであろう」
陸抗はそういうと、直ちに異民族の兵士たちと古参の部将の陣を入れ替えた。
果たして、楊肇がそこを攻めてきた。陸抗は邀撃し、大勝した。
楊肇は何か月も滞陣したあげく、万策尽き、夜陰に紛れて退却した。
陸抗は歩闡の動きを警戒し、ただ太鼓を打って兵を勢ぞろいさせ、追撃するようなふりだけをみせた。
これをみて晋兵は恐慌状態に陥り、逃走した。
楊肇の大敗を聞き、羊祜らも引き揚げた。
西陵は、孤立した。
陸抗は西陵城を攻め陥とし、歩闡とその一族らを処刑する一方、数万にのぼる将兵を赦免した。
陸抗は西陵城を修繕し、楽郷へもどった。
大功を立てながらそれを矜らず、謙虚な態度で人と接したかれに、将士たちは心服した。

羊陸の交わり

西陵の戦い以降、羊祜は徳と信義を修めて呉の人民の心をつかむよう心がけた。
陸抗も徳を修めるよう努めたため、国境では食物が道に放っておかれたままになっていても相手国に奪われず、牛馬が相手国に逃げ込んだ場合、相手国に通知して捕まえることができた。
漢水のほとりで狩りを行った際、晋人が先に傷つけた獲物を呉人が得たら、みな晋へ送り還した。
たがいに徳を競い合ううちに、陸抗と羊祜のあいだにいつしか友誼が芽生えていた。
陸抗が羊祜に酒を送ると、羊祜は少しもためらわずにそれを飲んだ。
陸抗は罹病すると、羊祜に使者を遣り、
「病に効く薬はありませんか」
と、尋ねさせた。すると、羊祜は薬を調合し、陸抗に贈った。
「毒が入っているかもしれませんぞ」
中にはそう忠告する部将もいたが、陸抗はかまわず、心から感謝して薬を服用した。
敵どうしでありながら親交を重ねるふたりをおもしろくないと感じる廷臣がおり、
――羊祜と陸抗は臣下としての節操を失っている。
と、玉座の近くで譏った。
これには孫晧も聞き棄てるわけにいかず、使者を遣って陸抗を詰問した。
「大国に信義を守る者がいなくてどうするのですか」
陸抗は、たしなめるようにそう反駁した。
ふたりは、互いを認め合う間柄であった。

憂 国

陸抗は、都護の職を加えられた。
武昌の左部督であった薛瑩が召還されて投獄されたと聞くと、上疏して赦免を願い出た。
軍事が相次いで国じゅうが疲弊していたため、上疏して国力の回復を図るよう進言した。
鳳皇二年(二七三年)、陸抗は大司馬に任じられ、荊州牧の職を授けられた。
鳳皇三年(二七四年)夏、病が重くなったかれは、上疏して西陵への精鋭の増派と募兵制の改革を訴えた。
最期まで呉の行く末を案じたかれは、この年の秋に四十九歳の生涯を閉じた。
かれの憂いもむなしく呉が晋に滅ぼされたのは、その六年後のことであった。

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