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中国史人物伝

劉氏の救世主 城陽景王 劉章(前漢) 神と崇められた気骨の士

『三国志』の主人公 曹操は、黄巾賊討伐の功により済南国の相(行政長官)に任じられた。

かれは赴任すると、汚職官吏を罷免し、淫祀邪教を禁止した。

――貧しい民から財を巻きあげる邪教である。

曹操がそう断じた信仰の対象は、城陽景王劉章であった。

かれは漢の高祖劉邦の孫で、劉邦の死後に専横をきわめた呂氏を滅ぼし、

劉氏の血胤を護り抜いた英雄として人気があった。

中国史人物伝シリーズ

目次

女 主

劉章は、斉王劉肥の次子である。
劉肥は劉邦の庶長子で、紀元前二〇一年に斉王に封じられ、封邑七十余城を食んだ。
六年後、劉邦が亡くなり、呂后が生んだ恵帝(劉盈)が即位した。
紀元前一九三年、劉肥は首都長安に入朝し、呂太后と恵帝と宴飲した。
その際、恵帝は君臣の礼ではなく、家族の礼により、兄の劉肥を上座にした。
――ぶっ、無礼な。
呂太后は怒り、宦官に命じ、鴆毒を入れた酒を盃に注がせ、劉肥に渡した。
――色が変だな。
劉肥が怪しんで、盃を恵帝に渡すと、恵帝は血相を変え、酒を床に落とした。
劉肥は危機をいだき、酔ったふりをして退席し、斉邸に戻ると、憂色を深めた。
前年に劉邦に寵愛された戚夫人とその子趙王如意が呂太后に恨まれて殺されていただけに、
――もはや逃れることなどできぬ。
と、劉肥は頭をかかえた。そこに、
「一郡を献じて魯元公主(呂太后の女)の湯沐の邑(化粧料にするための領地)になさいませ」
と、内史の士が進言してくれた。
劉肥はそれを容れ、
「城陽郡を献じ、魯元公主を斉王太后と称したくぞんじます」
と、願い出て呂太后を喜ばせ、何とか帰国することができた。

保 身

斉は呂太后の顔色をうかがい、領地を割いて保身を図った。
紀元前一八九年に劉肥が亡くなり、嫡子の劉襄が斉王となった。
つぎの年、恵帝が崩じ、呂太后が称制をはじめた。
劉襄は呂太后が甥の呂台を王に立てたいと望んでいることを知ると、済南郡を献上した。
紀元前一八七年、呂太后は済南郡を呂国とし、呂台を呂王に封じた。
紀元前一八六年、劉章が朱虚侯に封じられ、宮中で宿衛するようになると、
呂太后に気に入られ、甥の呂禄の女を娶った。
劉章は呂太后からわが子のように愛されたが、呂氏の専横を苦々しくおもっていた。
四年後、弟の劉興居が東牟侯に封じられ、宮中で宿衛するようになった。
同じころ、呂産(呂台の弟)を梁王(のち呂王)に、呂禄を趙王にそれぞれ封じた呂太后は、
劉邦のまたいとこで姪の夫でもある劉沢を王に立てたいと望むようになった。
劉襄はそのことを知ると、琅邪郡を分割した。
紀元前一八一年、呂太后は、劉沢を琅邪王に封じた。

耕田の歌

「酒宴をひらくゆえ、酒吏(酒宴の進行役)をするように」
劉章は呂太后からそう命じられ、
「臣は将軍の家柄でございますゆえ、軍法にのっとって仕切らせていただきとうぞんじます」
と、願い出て、聴許された。
酒宴がはじまると、劉章は出席者に酒を勧めたり、余興を強要した。
出席者は、たれも拒めなかった。
拒めば、酒令により斬られるからである。
宴が酣になった。
「太后のために、耕田の歌を歌いとうぞんじます」
劉章がそういうと、呂太后は、
「なんじの父なら耕田を知っていようが、生まれながらに王子であったなんじが耕田など知っておろうか」
と、笑いながらいった。
「臣は存じております」
「では、歌ってみよ」
「深く耕し、繁く種をまき、間を広くあけて苗を植えよう。異種の草は、鋤いて除こう」
満座は静まり返り、呂太后も何もいえなくなった。
――劉氏を皇室の藩屏として封建し、呂氏を除こう。
劉章の発言には、このような深旨があったからである。
沈黙に耐えられなかったのか、呂氏のひとりが酔って室外へ出た。
劉章はその者を追いかけ、剣を抜いて斬殺し、
「無断で席をはずした者がございましたゆえ、軍法により斬りました」
と、呂太后に報告した。
満座はいちように驚愕した。
呂太后も軍法にのっとって仕切ることを許していたため、劉章を処罰できなかった。
酒宴が終わった。
以後、呂氏一族は劉章をはばかるようになった。
一方、日ごろ呂氏の専横に不満をいだいていた群臣は劉章の司会ぶりを痛快がり、
大臣でさえも二十歳の劉章を頼みにした。

挙 兵

紀元前一八〇年、呂太后が崩じると、後ろ盾を失った呂禄と呂産は不安になり、
大臣たちに誅殺されるまえに機先を制して挙兵しようとした。
「父が相国(呂産)ともに兵を集めております」
呂禄の女である妻からそう知らされた劉章は、丞相の陳平や太尉の周勃らに呂氏の陰謀を知らせた。
「斉の悼恵王(劉肥)は、高帝(劉邦)の長子であらせられた。
高帝の嫡長孫でいらっしゃる斉王(劉襄)こそ、皇帝にふさわしい」
という大臣たちの意向を受け、劉章は斉へ使者を遣り、
「兵を挙げ、西へ向かいなされ」
と、劉襄に勧めさせた。
斉軍が長安へむかい、劉章と劉興居が長安で内応して呂氏を誅滅し、劉襄を皇帝に擁立する段取りである。
劉襄は挙兵し、琅邪王劉沢を欺き琅邪国の兵を併せて呂国を攻め、諸侯に檄を飛ばした。
呂産は、灌嬰に斉軍を邀え撃たせた。
灌嬰は滎陽でとどまり、劉襄に使者を送り、連合してともに呂氏を伐とうと説いた。

呂氏滅亡

陳平の策により、周勃は呂禄から北軍の兵権を譲り受けた。
周勃は北軍に入り、兵士たちを集め、
「呂氏につく者は右袒(右肩を脱ぐ)せよ。劉氏につく者は左袒せよ」
と、命じると、兵士たちはみな左肩を脱いだ(これが、「左袒」の故事の由来)。
その後、劉章は陳平に召され、周勃のもとへ駆けつけた。
「急いで宮中に入り、帝を衛れ」
周勃からそう指示された劉章は、千人の兵を率いて宮中に入り、
呂産をみつけると、執拗に追いかけて斬殺した。
劉章が復命すると、周勃は起って劉章を拝賀し、
「心配していたのは呂産のことだけであったが、きゃつを誅したのなら、天下は平定されたも同然じゃ」
と、いい、兵を発して呂禄を誅し、呂氏一族を滅ぼした。

新 帝

「こたびの功は、朱虚侯(劉章)が第一であった。
よって、斉王(劉襄)に帝位に即いていただき、朱虚侯を趙王に、東牟侯(劉興居)を梁王に立てよう」
大臣たちが集まり、そう話がまとまりかけた。ところが、
「斉王の舅の駟鈞は、虎が冠をつけているような男じゃ。
呂氏をだしにして天下を乱そうとしたが、いま斉王を立てれば、第二の呂氏があらわれるだけじゃ」
と、異議を述べる者があった。声の主は、琅邪王の劉沢であった。斉で騙された意趣返しをしたのであろう。
呂氏の専横に懲りた大臣たちは翻意して斉王の擁立を諦め、
高祖の子孫で外戚が政治に干渉しなさそうな者がいないかを協議した。
「代王(劉恒)のご生母薄氏の実家は君子長者であり、代王はいま生きておられる高帝の御子で年長じゃ」
この意見が採られ、大臣たちは劉恒の擁立を決め、代に迎えの使者を出した。
――代王にどんな功があったというのか。
劉章は憤懣やるかたなかったものの、劉襄のもとへ駆けつけて呂氏誅滅を報告し、
国もとへ引き揚げるよう伝えるしかなかった。
劉襄は弟のことばに力なくうなずいて帰還し、劉恒が長安に入り、即位した。文帝である。

有名無実

文帝は斉の領地を旧に復し、劉沢を燕王に移封した。
さらに、劉章と劉興居に恩賞として邑二千戸を増封のうえ黄金千斤を下賜したが、封地と爵位は据え置いた。
斉王を皇帝に擁立しようとしたかれらを警戒したからであろう。
紀元前一七九年、斉王劉襄が亡くなった。
紀元前一七八年、呂氏討滅の功により、劉章は城陽王に、劉興居は済北王になった。
――職を失い、功を奪われた。
劉章と劉興居は、肩を落とした。
王に昇進したとはいえ、斉の郡である城陽郡と済北郡を割いて斉の領土を削ったのである。
要するに、朝廷は名を与える代わりに、実を奪ったのである。
劉章は内心不満を抱きながらも領国に赴任し、翌年、二十四歳で失意のうちに世を去った。
その翌年、劉興居が謀叛を起こしたが失敗し、自殺した。

城陽景王信仰

死後、「景」と謚された劉章は、城陽景王と呼ばれた。
領国であった城陽近辺にはかれを祀る廟が多く建立され、多くの信仰を集めた。
王莽が建てた新の末期に蜂起した赤眉の指導者は城陽景王を信仰し、
劉章の末裔の劉盆子を籤引きにより皇帝に擁立した。
城陽景王信仰は後漢期も続き、済南が最も盛んで、劉章の祠が六百以上もあった。
しかし、この風習により人民は困窮に陥っていた。
曹操は済南国の相になると、衆を惑わす祭祀を禁じ、劉章の祠を壊させた。

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