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中国史人物伝

強秦の知恵袋 樗里子(公子疾)(戦国 秦)

「力は任鄙、智は樗里」

そのようなことわざが、秦にあったらしい。

任鄙は秦の武王に寵愛された力士で、樗里とは同時期に秦の宰相を務めた
樗里子(公子疾)(?-前300)
である。

樗は栴檀(おうち)で、木材としては使えず、ものの役に立たない散木である。

渭水の南にある陰郷に、樗里という地があった。

そこには樗が多数生息していたのであろう。

そのようなところに住んでいた公子が、邸をかまえた地の名を採って樗里子とよばれた。

無用とされる散木が、秦の版図拡張に有用な傑物の呼称となったのは、樗の諧謔であろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

強秦の知恵袋

樗里子は、商鞅を重用し、大改革を断行させ、富国強兵を果たした秦の孝公の子として生まれた。
母は、韓の公女である。
秦公の子で、名は疾であるから、公子疾と書くのが適当かもしれないが、
樗里子あるいは樗里疾と書かれることが多いため、便宜として、ここでは樗里子で通すことにする。
樗里子は、父の孝公の死後、異母兄の恵文王に仕え、庶長になった。
庶長は爵位で、右庶長は第十一爵、左庶長は第十爵である。
爵制を導入したのは、商鞅である。
爵位は軍功により与えられ、公子であっても国家に貢献しなければ富貴を得ることができなかった。
――樗里子は、滑稽で多智。
『史記』(樗里子列伝)で、知恵が豊富で弁が立つと評された樗里子は、
実力主義社会でおのれの才覚を恃みに昇進をつづけた。
そのようなかれを、いつしか秦人は、
「智嚢(知恵袋)」
と、よぶようになった。

昇 進

恵文王は張儀を宰相に任じて重用し、王号を称え、富国強兵をさらに推し進めた。
秦の勢いを警戒した韓、趙、魏、燕、楚の五か国が連合軍を形成し、
恵文王七年(紀元前三一八年)に秦に攻め込んできた。
恵文王から連合軍を邀え撃つよう命じられた樗里子は、要害の函谷関で連合軍の進軍を阻んだ。
――敵の足並みがそろっておらぬ。
そう見抜いた樗里子は、函谷関から出撃した。
樗里子率いる秦軍は、連合軍と韓の修魚で戦って大破し、韓の将申差を捕虜にし、敵兵八万二千人を斬首した。
この活躍で、樗里子は右更(第十四爵)になった。
恵文王十一年(紀元前三一四年)、樗里子は魏の曲沃と焦を攻め陥とし、秦の版図に組み入れた。
翌年、樗里子は趙を攻め、趙の将軍荘豹を捕虜にし、藺邑を抜いた。
恵文王十三年(紀元前三一二年)、樗里子は魏章を援けて楚の将軍屈丐率いる楚軍を丹陽で破り、
漢中を攻め取った。さらに、藍田で楚軍を大破した。
この活躍で、樗里子は厳に封じられ、厳君とよばれるようになった。

丞 相

恵文王が亡くなり、武王が即位すると、かねてから武王と折り合いが悪かった張儀と魏章が魏へ出奔した。
武王二年(紀元前三〇九年)、人臣の最高位としての丞相職が初めて設置され、
樗里子が左丞相に、甘茂が右丞相に任じられた。
翌年、武王は、
「寡人は三川(黄河・洛水・伊水)に兵車を入れて周室を窺いたい。さすれば、死んでも悔いはない」
と、意望を吐露し、甘茂に韓を攻めさせ、宜陽を抜いた。
捷報に接し、欣喜した武王は、
「先に周へ行ってもらいたい」
と、樗里子に命じた。
樗里子は百乗の兵車(一万の兵)を率いて周へむかい、除道をおこなった。
周の都である洛陽に近づくと、前方に赤い軍装に包まれた軍勢がみえた。
――周師か。
なんと、周は兵卒を出して、丁重に秦軍を迎え入れたのである。
樗里子は洛陽に政庁を開き、武王を迎え入れる準備を整えた。

王座の行方

武王四年(紀元前三〇七年)、武王は周へはいった。
――天子の象徴は、これであろう。
武王は宝庫にはいり、九鼎を目の当たりにして息を呑んだ。
九鼎を保有するものが、天下の主なのである。
――これからは、われのものじゃ。
膂力に自信がある武王は昂奮し、
「力比べをいたそう」
と、いうや、軽々と鼎を持ち上げ、
「どうだ、これ……」
と、話した途中で手が滑ったのか、鼎を足に落としてしまい、脛骨を折って絶命した。
天罰でも降ったのではないか、とおもえるほど愚劣な最期である。
武王には、子がいない。
空いた王位をめぐり、武王の群弟が争いをはじめた。
秦の吏民は、有力者である樗里子の動向を注視した。
なにしろ、樗里子自身が王位継承権を有しているのである。
樗里子が野心をいだけば、かれを担ぐ者が出てくるであろう。
それに、洛陽には武王が率いてきた秦の精鋭がいる。
樗里子が洛陽の精兵を秦にむければ、たれも太刀打ちできないであろう。
ところが、樗里子は洛陽から動かなかった。

説客胡衍

つぎの年、樗里子は兵を洛陽から東へ動かした。
これにより、かれは王位を窺う意思がないことをしめしたのである。
樗里子は、衛の蒲邑を攻め囲んだ。
そのさなかに、胡衍という説客が樗里子に面会を申し入れてきた。
「おもしろい。何をいうか聞いてやろう」
樗里子は、胡衍を引見することにした。
胡衍は樗里子に会うと、
「公が蒲を攻めるのは秦のためですか、それとも魏のためですか」
と、問うてきた。樗里子が応えずにいると、胡衍が、
「魏のためならよいのですが、秦のためならいけません」
と、いった。
「なぜじゃ」
樗里子は首をかしげた。
「衛という国が存立するのは、蒲があるからです。
いま、蒲を伐てば魏のものになり、衛はきっと魏に屈しましょう。
魏が秦に黄河西岸を奪われたまま取り戻せないのは、兵が弱いからです。
でも、魏が衛を併合すれば、魏はきっと強くなりましょう。
そうなると、黄河西岸はきっと危うくなりましょう。
そうなれば、秦王は公が秦を害して魏を利したとお思いになり、公を罰しましょう」
「ならば、どうすればよかろう」
「どうか蒲をお攻めなさいませぬよう。臣は公のために衛君に恩を売ってまいりましょう」
「あいわかった」
もともと積極的に城を攻める気のない樗里子は、胡衍の進言を容れて蒲の囲みを解いた。
――まだ秦に戻れぬな。
樗里子は軍頭を東にめぐらせ、魏の皮氏を攻めた。
韓の公女を母にもつかれにすれば、
――秦の侵略の主眼は韓ではなく、魏に据えるべきである。
と、考えているのであろう。
かれの眼は目前の城ではなく、国もとをむいていたのかもしれない。
秦国内の内乱が収束したことを知ると、城攻めを中止し、帰途に就いた。

遺 言

帰国した樗里子は、内乱を制し、秦王となった昭襄王に復命した。
王室の重鎮である樗里子が臣従する容をみせたことで、
昭襄王は安心して聴政の席に就くことができたであろう。
樗里子は昭襄王から尊重され、顕位を保ちつづけたまま、昭襄王七年(紀元前三〇〇年)に亡くなった。
樗里子は渭水の南、章台の東に葬られた。
「百年後、ここに天子の宮殿ができてわが墓をはさむであろう」
樗里子は、そう遺言した。
かれのいう天子とは、秦王のことであろう。
樗里子は、秦が天下を統一し、秦王が天子になる世を、脳裡に思い描いていたはずである。
秦は天下を統一したものの短命に終わり、かれの死から百年後の天子は漢の皇帝であった。
知恵者の樗里子でも、そこまで予想し得たであろうか。
ともかくも、墓の東には長楽宮が、墓の西には未央宮がそれぞれ造られ、かれのことば通りになったのである。

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