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中国史人物伝

ほんまの敵は上司? 張郃(三国 魏)(2) 孔明との死闘

曹操の部将となり、魏の名将と謳われた張郃は、

曹魏三代に仕え、その武勇と兵略で名声を高めてゆく。

蜀の諸葛孔明の侵攻に対し、魏は司馬仲達を帥将として当たらせた。

仲達が張郃に下した命令とは――

張郃(三国 魏)(1) 曹操の名将

目次

魏建国の功臣

建安二十五年(二二〇年)、曹操が亡くなり、曹丕が後を継いだ。
曹丕が魏王になると左将軍・都郷侯となった張郃は、曹丕が皇帝になると鄚侯に昇進した。
故郷の領主貴族になったかれは、曹真に属し、詔勅により安定の盧水にいる胡(蛮族)と東羌を討伐した。
黄初三年(二二二年)、曹真、夏侯尚とともに江陵を攻めるよう命じられ、長江の中州にある砦を奪った。
明帝の時に、張郃は荊州に駐屯し、司馬懿とともに呉の劉阿を攻め破った。
そして、かれの名をさらに高める戦いを迎えた――。

街亭の戦い

太和二年(二二八年)、蜀の諸葛亮が祁山に侵攻した。
劉備の死後、蜀が魏に攻め込んでくることがなかった。
そのため魏は安心し、蜀に対して無警戒であった。
そこを諸葛亮が急襲し、天水・南安・安定の三郡を取ったため、魏は国じゅう恐慌をきたした。
一方、天水・南安の西にある隴西郡は蜀に抵抗したため、隴右(隴山の西側の地域)は分断されてしまった。
――隴右を救わねばならぬ。
事態を重くみた明帝は関中の動揺を鎮めるべく長安へ行幸し、曹真に関中を固めさせ、張郃に特進の位を与えて蜀軍に当たらせた。
張郃は、兵馬を西のかた略陽へむけて急がせた。
略陽付近には、かれがかつて劉備の攻撃から守りつつ移住を助けた巴氐が居住している。
かれは、自軍に巴氐を取り込もうとしたのかもしれない。
隴右には、巴氐以外にも異民族が多く居住している。
蜀も、現地の異民族を味方に引き入れようとしているであろう。
長安のある関中から略陽へむかう途中に、街亭という地がある。
街亭は、南北を山で挟まれ道幅が狭いという要害の地である。
ここを蜀軍が先に押さえてしまうと、略陽まで遠回りすることを余儀なくされてしまう。
それゆえ、張郃は蜀軍より先に街亭に着きたかった。
ところが、街亭に到着した張郃は、眼前に赤い旗が林立するのをみて、色を失った。
――先を越されたか。
こうなれば、遠回りして渭水に出るしかあるまい。そうあきらめた張郃のもとに、偵候があらわれ、
「敵の陣は、南山の山頂にあります」
と、報せてきた。
「ふもとの街道も抑えているのではないか」
「いえ、街道沿いに小隊がおりますが、千人くらいしかおりません」
「信じられぬ」
張郃は側近だけを従えて、蜀軍の布陣を確かめた。
――なんだ、これは――。
張郃は敵軍の布陣を知り、おのれの目を疑った。
蜀軍の本陣は南山の山頂にかまえられ、ふもとの砦に立て籠もっていなかった。
「ここに陣を張れば、寡兵でもわが軍を防げたであろうに」
張郃はそうつぶやくと、敵将がたれか聞いた。
「馬謖だそうです」
聞いたことがない名前である。
ともかくも張郃は冷静さを取り戻し、馬謖軍への対策を練った。
張郃は、南山からふもとに下りる道を抑え、蜀軍の水の補給路を絶った。
日を経るごとに、山上の馬謖の陣から兵の数が減っていった。
――そろそろ限界であろう。
のどの渇きに耐えられなくなった馬謖軍が、こぞって山を駆け下ってきた。
張郃は士気の衰えた馬謖軍を攻撃し、散々に撃ち破った。
張郃は隴右へむかい、蜀に降った三郡を平定した。
蜀軍が撤退すると、明帝から功を賞され、食邑千戸の加増を受け、合計四千三百戸となった。

仲達の麾下に

老将の域に達していても、天下が落ち着くまでは、張郃には休む暇も与えられない。
隴右の救援を終えるやいなや、
――関中の諸軍を指揮して荊州へむかい、司馬懿の指示に従うように。
との詔命を受けた。
この頃、司馬懿が荊州で水軍を整え、川を下って呉を攻めようと計画していた。
張郃が荊州に着いたのは冬で、水位が低く、大型船が運行できなかった。
そのため、引き返して方城に駐屯した。
が、ほどなく明帝のお召しを受けた。
諸葛亮が再び出兵し陳倉を急襲した、という。
明帝は河南城に行幸し、宴を催して張郃をもてなした。
「将軍の到着が遅れれば、陳倉は諸葛亮の手に陥ちてしまわないであろうか」
という明帝の諮問に、
「臣が到着する前に、諸葛亮はすでに去っていましょう」
と、張郃は応えた。
――蜀軍は国もとを遠く離れて軍を出している。ゆえに兵糧がなく、長く戦えないであろう。
かれは、そう見抜いていたからである。
張郃は三万の兵と近衛兵を与えられ、昼夜兼行で南鄭へむかったが、予想通り蜀軍は引き揚げてしまっていた。
張郃は明帝のお召しを受けて洛陽へゆき、征西車騎将軍に任じられた。

木門道

太和五年(二三一年)、諸葛亮が四度目の北伐を起こし、またもや祁山に侵攻した。
張郃は詔勅を受け、諸将を指揮して略陽へむかった。
巴氐の取り込みは、かれが隴右で戦う際の基本戦略なのであろう。
張郃が略陽に到ると、蜀軍は祁山に撤退した。
「敵が退くぞ。追え」
大将軍の司馬懿が、張郃に追撃するよう命じた。
「兵法には、城を包囲する際は必ず逃げ道を開けておく、帰還する軍は追ってはならない、とあります」
張郃は再考を促したものの、司馬懿は聴き容れなかった。
張郃はやむなく追撃し、祁山の東にある木門まできて、両側を崖で挟まれた狭い道にさしかかった。
――深追いしすぎたか。
張郃は、内心舌打ちをした。
――ここに兵を伏せられれば、全滅は必至であろう。
背すじに冷たいものが走るのを感じた張郃が、追撃を停止し、引き返そうとしたその瞬間、崖の上に蜀軍の伏兵があらわれ、弓矢を射かけられた。
魏軍は逃げるどころか、頭上を行き交う飛矢を防ぐのに精一杯であった。
張郃自身も右膝に流れ矢を受け、戦死してしまった。
「蜀をまだ平定せぬうちに張郃は死んだ。いったいどうすればよいのか」
明帝は歴戦の名将の訃報に接し、哀惜の念を隠し得なかった。

上司に恐れられた名将

張郃が反対したにもかかわらず、司馬懿が張郃に追撃命令を強行したことについては、後に自分が政権を取ったときに張郃が邪魔な存在になりそうなので、敵に始末させたという見解がある。
その後のかれの行蔵からすると、傾聴すべき考察なのかもしれない。
一方、当時の司馬懿の戦歴が乏しかったことを考えると、単に功を焦っただけのようにも感じられなくもない。
――蜀軍の撤退は、以前と同様、兵糧が切れたためである。
司馬懿がそう判断し、
――追撃をすれば大勝し、犠牲も出ないであろう。
と、おもったのであればどうであろう。
たしかに蜀軍の撤退は食糧が尽きたがゆえのものであったろうが、敵を誘い込もうとする諸葛亮の作戦でもあったのである。
それを戦争経験が豊富な張郃は見抜いたが、経験が乏しい司馬懿にはわからなかった。
このとき司馬懿は五十三歳であったのに対し、張郃は六十歳は超えていたはずである。
年上の部下は扱いにくい。しかも、戦歴は張郃の方がはるかにすぐれている。
そうなると、張郃は司馬懿に恐れ憚られていたのではなかろうか。

名将であるがゆえに

張郃は、武勇と兵略にすぐれた名将であった。
戦闘の場裡はその時その場限りであり、全く同じ状況は二度と現出しない。
張郃は臨機応変なふるまいができ、戦況や戦地を考慮して計略通りにいかないことはなかったという。
張郃は単に力任せに突き進むのではなく、その場に応じて適切に戦況を判断し、実行に移し、遂行できる能力があった。
敵対した劉備や諸葛亮が張郃を恐れたのは、その辺りにあったろう。
にもかかわらず、袁紹や司馬懿に献言が容れられず、非業な最期を遂げてしまった。
かれにとって、曹操に従って戦っていたときが最も充実し、輝いていたであろう。
曹操に二十年仕えたことで、かれの戦いぶりは、いつしか曹操の兵略を彷彿とさせるものになっていた。
それが、味方であるはずの司馬懿を恐れさせてしまったのではなかろうか。
張郃の発言は理にかなったものであった。
それだけに、余計に無理にでもおのれに従わせようとしたのかもしれない。
また、張郃は儒学の士をかわいがり、同郷の卑湛を推挙したこともある。
士を遇することで、張郃の名声がさらに高まった。
もしかすると、司馬懿は張郃に威圧されるような感覚をおぼえていたかもしれない。
そこまでではないにせよ、司馬懿にとって自分よりも戦歴も年齢も高い張郃は目障りで扱いに苦慮する存在であったのは間違いなかろう。
張郃は類い稀な才覚で名声を得たが、その才覚でおのれの生涯を閉じたといえなくはない。

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