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中国史人物伝

一諾 季布(前漢)(2)剛と柔と 項羽と劉邦に仕えた任俠の名士

季布(1)はこちら>>

季布は、項羽の部将として、戦場で劉邦に死の恐怖を与えた。

劉邦は項羽を滅ぼすと、季布を執拗に捜索させた。

任俠で名高い魯の朱家を頼り、韜晦を続ける季布に、

再び活躍の場が与えられる日が訪れるであろうか。

目次

游 俠

朱家には数多の部下がいたが、邸は豪奢というわけではなく、衣は色どりを合わせ用いず、食は肉の美味を重ねなかった。
「しばらくここで働いてもらおう」
朱家は、季布を自分の田地で働かせ、息子には、
「農事はこの奴隷のいう通りに行い、いつも起居を共にせよ」
と、いいつけると、みずからは小牛に車をひかせて出かけた。
むかった先は、洛陽である。
――任俠といえば、滕公であろう。
朱家は洛陽に入ると、滕公すなわち夏侯嬰に面会を求めた。
夏侯嬰は、劉邦と同郷で付き合いが長い人物である。劉邦の側近中の側近といってよい。
劉邦がまだ亭長であったころ、夏侯嬰とじゃれ合って傷つけたことがある。
「劉邦が、夏侯嬰を傷つけました」
何者かが、役所にそう告訴した。
亭長が傷害罪を犯した場合、黔首(庶民)よりも刑が重かった。それゆえ劉邦は、
「われは傷つけてなどおらぬ」
と、抗弁し、夏侯嬰も、
「われが勝手に転んでけがしたんです」
と、証言した。
しかし、劉邦に傷害罪、夏侯嬰に偽証罪の判決が下った。
夏侯嬰は、一年以上獄に入れられた。
しかし、数百回鞭打たれても、
「われが勝手に転んでけがしただけだ」
とだけ繰り返し、劉邦を庇い抜いた。ついに、劉邦は罪にかからずにすんだ。
――これぞ、任俠よ。
この話を聞いた朱家は、感嘆の声を挙げたものであった。
似た者どうしで気が合うのであろうか。
夏侯嬰は朱家を数日もてなして、ともに酒を吞んだ。
「季布にどんな大罪があるのでしょうか」
「きゃつは何度も主上を苦しめおった。主上はそれを怨んでおるんじゃ。それゆえ、何としてでも捕まえようとされておるんじゃ」
「君がご覧になって、季布とはどのような人物でしょうか」
夏侯嬰は朱家の顔を覗き込むように視て、
「賢者である」
と、答えた。すると、朱家は、
「臣下はそれぞれの主君に役立とうと勤めるものです。季布が項羽のために働いたのは、当然のことをしたにすぎません。項羽の旧臣を残らず誅殺できるものでしょうか。今、主上は天下を得られたばかりなのに、私怨で一人を捜し求められるのは、おのが狭量を天下に示すようなものではございませんか。それに、季布のような賢人を漢が厳しく捜索すれば、北の胡(匈奴)か南の越に逃げましょう。壮士を忌避して敵国を助けてしまったからこそ伍子胥が楚の平王の墓を鞭打ったんです。君はどうしてこのことを主上に申しあげな
いのでしょうか」
と、畳みかけるように語った。
――いなせよのう。
朱家の話を聞いて賛嘆した夏侯嬰は、
――季布は、この者に匿われているな。
と、察し、
「そのようにいたそう」
と、応じた。
夏侯嬰は劉邦の閑な折りをみて、
「陛下は、なにゆえ季布を捜し求めておられるんでしょうか」
と、尋ねた。果たして、季布の名を聞いたとたん、劉邦は顔を赤らめて、
「たわけたことを訊くな。きゃつは何度もわしを殺しにきた。わしは死にかけたんだぞ。
あの恨みを晴らさなければ死んでも死に切れんわ」
と、怒声を放った。しかし、夏侯嬰が、
「季布をどうお思いですか」
と、聞くと、劉邦は天井を見上げ、やや間をおいてから、
「賢人じゃ」
と、応えた。すると、夏侯嬰は穏やかな口調で、
「季布は主君のため働いたにすぎません。あれほどの賢者を活かさない手はございません」
と、とりなした。
「その通りじゃ」
劉邦がそういって手を拍った瞬間、季布の隠匿生活は終わった。
――季布は剛毅を曲げて柔軟に身を処したものじゃ。
諸公は、そういって季布をほめた。
季布は召されて劉邦に謁見し、これまでのことを詫びた。
「済んだことはもうよい」
そういった劉邦は、
「なんじのような者を、側に置いてみたかった」
と、いい、大胆にも季布を郎中(侍従)に任じた。
劉邦は、若い時に戦国四君の一人である信陵君にあこがれ、任俠を気取ったことがあった。
それゆえ、季布に何か通じるものを感じたかもしれない。
朱家は、仕官を果たした季布に一度も会いに行かなかった。
それどころか、自分が季布を匿い助けたことを他人に知られることさえ恐れたという。

正 論

劉邦が亡くなると、匈奴の冒頓単于が、恵帝の母である呂太后に書翰を送ってきた。
「(太后)陛下は(劉邦に)先立たれ、孤憤(冒頓)は(夫人を亡くし)独居。お互いに淋しい身の上で、楽しいことなどございません。それならいっそのことご一緒になりませんか」
――ぶっ、無礼な。
書翰を読んで呂太后は激怒し、諸将を召集して匈奴への対応を諮った。
「臣に十万の兵をお預けくだされ。匈奴を蹂躙してみせましょう」
上将軍の樊噲が威勢よくそういうと、諸将はみな呂太后に阿り、同調した。
そんな雰囲気を切り裂くように、
「樊噲を斬るべきです」
と、するどい声が挙がった。満座が一斉に声の主をみた。季布であった。
「高帝(劉邦)が四十万の兵を率いても平城で苦しめられ、樊噲もその時そこにいたのです。それなのに、樊噲が十万の兵で匈奴を蹂躙できましょうや。これは太后を欺くものです。それに秦が胡(匈奴)対策にかまけていたので、陳勝が決起したのです。今、戦いで受けた被害からまだ回復していないのに、樊噲がこびへつらい、天下を動揺させようとしております」
中郎将(宮中警護官長)に昇進していた季布は、そういって、樊噲を指弾した。
樊噲の妻は、呂太后の妹である。
満座は、凍りつき、呂太后の顔色をうかがった。
呂太后は何もいわずにその場を去り、その後二度と匈奴征伐の話をしなくなった。

直 言

呂氏が滅ぼされ、文帝が即位すると、季布は河東郡の太守になった。
「季布は賢人です」
という推挙が玉座にのぼった。
――それならば、季布を御史大夫(副首相)にしよう。
文帝はそう決めて、季布を召しだした。
ところが、季布が長安に来てから一か月経っても何の沙汰もなく、河東に戻ることになった。
実は、
「季布は勇気はありますが、酒がはいると近づきにくい人です」
と、文帝に吹き込んだ者がいて、季布の扱いに苦慮していたのである。
季布は帰任前に文帝に拝謁し、
「臣は何の功績もないのにご寵愛をいただき、河東で勤めさせていただいております。陛下はわけもなく臣をお召しになられました。これは、たれかが臣を褒めて陛下を欺いたからでしょう。ところが、都に上れば、何のご沙汰もなく、帰ることになりました。これは、たれかが臣を陛下に讒ったからでしょう。さすれば陛下は、一人が褒めたから臣をお召しになり、一人が讒ったから臣をお帰しあそばされることになります。天下の有識者がこれを聞けば、陛下のご器量のほどを窺い知るのではないか。臣はそれを憂えております」
と、言上した。
文帝は恥じてしばらく何もいえなかったが、ようやく口を開き、
「河東はわが股肱の郡である。ゆえに君を呼んだまでじゃ」
と、いうしかなかった。
季布は退出し、河東へ帰った。

一 諾

楚出身の弁士である曹丘は、権力者に取り入って富を得ようとし、宦官の趙談らに仕え、
竇皇后(文帝の皇后)の兄である竇建と仲がよかった。
――いけ好かぬやつだ。
曹丘のことを快くおもわない季布は、
――曹丘が、竇長君(竇建)の門によく出入りしている。
と、聞き知るや、竇建に書翰を送り、
「曹丘は長者ではない、とわれは聞いています。つきあってはなりません」
と、諫めた。
曹丘は楚に帰る際に、季布に会いたいとおもい、竇建に紹介状をもらおうとした。
「季将軍は、あなたをよくおもっていない。行ってはならぬ」
竇建はそう忠告したが、曹丘は、
「なにとぞ――」
と、無理にお願いして紹介状を書いてもらった。
曹丘は、まず使いをだして季布に紹介状を届けさせた。
――孺子めが、臆面もなくあらわれおるか。
季布は烈火のごとく怒り、曹丘がくるのを待ちかまえた。
曹丘は季布を訪れると、揖の礼をし、
「楚のことわざに、黄金百斤を得るよりも季布の一諾を得る方がよい、と申します。あなたはどうやって梁・楚の間でこんな名声を得ることができたのでしょうか。それにわれもあなたも楚の出身です。われがあなたの名声を天下にばらまけば、素晴らしいじゃありませんか。それなのに、なにゆえあなたはわれをそんなに拒まれるのですか」
と、直言した。
「そこもとの申される通りじゃ」
季布は大喜びし、曹丘を上客として数か月も手厚くもてなしてから送り出した。
曹丘は、ことば通り、至るところで季布のことを吹聴した。
そのおかげで、季布の名が天下にますます鳴り響くようになったという。

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